サルコジとマオイスト(メモ)

東日本大地震で色々なことが目立たなくなってしまったが、そのひとつは中東、特にリビアの情勢*1だろう。地震のどさくさに紛れてなのかどうかは知らないが、英・仏・米軍がリビアへの空爆を開始した。
さて、それを巡って、飛田正夫「サルコジ仏大統領の「リビアカダフィ空爆」の賭けに、フランスや欧州の運命が危惧」は以下のように述べている;


サルコジ仏大統領は10日、リビアで蜂起する反カダフィベンガジ政府をリビアの正式な代表に承認した。11日の欧州議会ではリビアへの空爆を提案するらしい。

 この大統領官邸エリゼ宮殿の独走に対して、新任のアラン・ジュッペ防衛相だけでなく欧州諸国もみんなが唖然としていると、フランスの左翼系新聞「リベラション紙」の元編集長ローラン・ジョフラン氏がヌーベル オブセルバトワー誌に移った後釜に最近に就任したばかりのニコラ・デモラン氏は語っているという。

 フランスの各紙は、2007年にパリに国賓招待した残忍でグロテスクな独裁者カダフィと自分が一緒に歩いた赤い絨毯のイメージを、サルコジ大統領が2012年の大統領選挙のために是が非でも葬り去りたくて、必死の策なのだと見ている。

 カダフィへの空爆作戦案はサルコジ大統領と哲学者のベルナール・アンリ・レヴィによってひそかに2人だけで決められたという。そのやけくそ的な大統領の賭けで、フランスや欧州全体の重大な運命が左右される危険を多くの人々が心配している。(ブログ「フラネット」より)
http://www.newsmag-jp.com/archives/7537
ベルナール=アンリ・レヴィやアンドレ・グリュックスマン*2のようなマオイスト崩れの哲学者はかつて「ヌーヴォー・フィロゾフ」と呼ばれたが、彼らの(変節を含む)軌跡については、


的場昭弘五月革命サルコジ(上)―「ブルータス お前もか」」http://chikyuza.net/modules/news1/article.php?storyid=383
的場昭弘サルコジと5月革命(下)―マオイストの変質」http://chikyuza.net/modules/news1/article.php?storyid=385


を参照のこと*3仏蘭西の「ヌーヴォー・フィロゾフ」に日本で対応するのは、1970年代後半に「マルクス葬送派」と呼ばれた人々かも知れない。その代表は笠井潔*4。まあ、笠井氏は元毛沢東主義者ではなく元構造改革*5だったけれど。それから、五月革命*6というかその世代を「個人主義」云々ということで攻撃するのは新しいことではないが*7、「我欲」を批判して大地震の責任まで押し付けてしまう石原慎太郎を連想しないでもない*8。あの仏蘭西嫌いがサルコジと共鳴してしまうというのは何ともアイロニックではある。
最後に、「ヌーヴォー・フィロゾフ」に対するジル・ドゥルーズの批判を引いておく;


『アンチ・オイディプス』は、現実界の一義性を追究し、いわば無意識にかんするスピノザ哲学を実践した本です。そして六八年がもたらしたのは、現実界の一義性を目のあたりにするという強烈な体験だった。私はそう信じています。六八年を憎む人や、六八年は否認されて当然だと思っている人に言わせると、あれは象徴界想像界の問題だったということになります。しかし象徴界想像界もまったく関係なかった。純粋な現実界が闖入してきたというのが六八年の実像ですからね。いずれいしても、『アンチ・オイディプス』がフロイトを向こうに回して論をすすめるときの段取りと、「ヌーヴォー・フィロゾフ」がマルクスを向こうに回して論をすすめるときの段取りを比べても、類似点はひとつとして見当たらないと思います。もし類似点が見つかるようなら、私としてはうろたえるしかない。『アンチ・オイディプス』の精神分析批判に一貫した主張があるのは、事の当否はしばらくおくとして、とにかくあの本では無意識についての考え方を詳しく説明し、それと連動させるかたちで批判を行っているからです。それにたいしてヌーヴォー・フィロゾフは、マルクスを告発するだけ告発しておきながら、資本についての新たな分析をおこなうことがまったくないため、彼らの著作では資本の存在が不思議なくらい稀薄になるばかりで、要するに彼らは、政治的にも倫理的にも深刻な結果をもたらしたスターリニズムの影響を告発し、その淵源にマルクスがいると仮定したにすぎないのです。ヌーヴォー・フィロゾフは、不道徳な影響をおよぼしたとして、ことさらにフロイトを非難した人たちに近いといえるでしょう。そんな態度で哲学ができるはずはありません。(「哲学について」in 『記号と事件』*9、pp.292-293)
記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出文庫)

記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出文庫)