翻訳を巡って(メモ)

http://d.hatena.ne.jp/kanjinai/20080805/1217942261


ちょうど「光文社古典新訳文庫」のローベルト・ムージル『寄宿生テルレスの混乱』(丘沢静也訳)を読み始めたところだったのだ。

寄宿生テルレスの混乱 (光文社古典新訳文庫)

寄宿生テルレスの混乱 (光文社古典新訳文庫)

上掲の森岡正博氏のエントリーは2008年のものであるが、最近再度関心が集まっているようだ。8月の末にブックマークが新たに7つ増えている*1。勿論、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の翻訳が議論を呼んでいるということは以前から知っていたけれど。どうしてこんなに急に?
さて森岡氏曰く、

私が光文社新訳問題に気づいたのは、大学院の演習でJSミルの「自由論」を、岩波訳、古典新訳文庫訳、原文、で読み比べたときだった。たしかに古典新訳文庫の日本語は、日本語として読みやすくなっているが、そのぶんだけ、原文の含蓄が失われているし、はっきり言って、原文の哲学的ポイントが翻訳できていない箇所が多々ある。その点では、古い岩波訳のほうが、日本語は読みにくい反面、原文の意図に忠実に訳されている(ただ翻訳者が複数のためムラがある)。上での議論は、おもに「小説」をめぐってであるが、同じことは「哲学」についても言えるだろう。前にもどこかに書いたが、哲学書の翻訳は、その哲学者が何を言おうとしているのかを理解できる程度の論理脳を持った人が訳すべきである。そうじゃないと、その哲学書のレベルが、訳者の脳のレベルにまで下がってしまうことになる。なぜなら訳者は自分の脳で理解できる範囲のことしか訳せないからである。
〈読みやすさ〉至上主義というのが問題の一端をなしているということはあるだろう*2。特に哲学書の翻訳における〈読みやすさ〉至上主義の是非が問題になった端緒は多分長谷川宏ヘーゲル翻訳だったと思う。森岡氏は長谷川宏の訳業に関してはどうお考えなのか。鈴木直氏はその翻訳批判である『輸入学問の功罪』の中で、長谷川氏のヘーゲル精神現象学』翻訳を「「わかりやすい日本語」への変換を焦る余り、原典をドイツ哲学のコンテクストから無造作に切り離し、われわれの日常現実に無媒介に同化させてしまう」(p.199)と批判しつつ、次のように述べている;

日常現実から切り離されたアカデミズムと、日常現実に迎合する反アカデミズムはじつのところ同じ平面上にある。それはともに対象を主体に従属させようとする支配関係から一歩も踏み出してはいない。
あの下僕と同様に、訳者もまたドイツ語の原文が持つ「否定性」に直面しなければ、そこから何かを学ぶことはできない。訳者の思い通りにはならない原文の自立性に服し、自らの主観を脱して、訳者はいったん、その文脈の中に、徹頭徹尾とりこまれなければならない。原文とドイツ哲学の文脈の中に沈潜するその経験が、訳者の主観を一段高いものへと鍛えあげる。
勝手気ままに物を消費する主人のように、原文の「非自立的」側面だけを自分の都合に合わせて改変する訳文は、どんなに読みやすくても、翻訳の自立性を助けることはない。逐語訳が原文への忠実さを意味しないのと同じように、わかりやすさは原文を勝手に離れてよいことを意味してはいない。「媒介」は「非同一性」を前提にしてはじめて成立する。訳者はテクストの自立性と否定性に身をさらし、自らの外へと出て行くことによってはじめて本来の文脈を日本語へと媒介できるようになる。(p.200)
これはヘーゲル或いは「哲学」に限ったことではあるまい。
輸入学問の功罪―この翻訳わかりますか? (ちくま新書)

輸入学問の功罪―この翻訳わかりますか? (ちくま新書)

森岡エントリーからリンクされているのは、木下豊房「亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』を検証する」*3、それから藤井一行と中島章利の両氏による『翻訳出版の責任を問う』*4。両氏はレオン・トロツキー翻訳の再検証を行っている*5トロツキーの思想は戦後、露西亜語原文からではなく(原文に必ずしも忠実であるとはいえない)英訳からの(誤訳だらけの)翻訳によって日本に紹介されてきた。その重訳・誤訳によって日本の新左翼運動はプッシュされてきたといえる。これって、凄いことではないだろうか。たんに翻訳の問題ではなく、政治思想史や知識社会学の問題である。


ところで、森岡エントリー再注目のきっかけとなったのはhttp://d.hatena.ne.jp/islecape/20100826/p1であろう。よく日本では翻訳文化が発達しているので一般人には外国語なんていらないよという人がいるが、これはそれに対するカウンターステイトメントになっているようだ;


(前略)「古典資産」が着々とフリーになっていくさまを見るに、日本語モノリンガルの情報アクセス格差はけっこう深刻かもしれない。Googleブックスのサービス開始や、Kindle、Reader、iPadなど、英語圏を中心に進む情報デジタル化へのトレンドが必ずしもすべて「読者の利益に一直線」であると考えるのは楽観的にすぎるだろうが、日本のデジタル出版の動きと見比べると、その「差」にため息が出る。

おりしもはてなハイクでは「古典読む部」というコミュニティが形成されつつあるところだが、それにしても、いま絶版などの理由により日本語で手に入らない「海外古典」がどれほどあることか。そして、それらが英語文化圏でいかに入手しやすくなっているか。

多くの古典作品を刊行している岩波文庫は、「基本的に絶版はなく品切れ状態があるだけ」で、注文が相当数に達すれば再刷するという、「ひとり復刊.com状態」を続けているらしい(でも出ないときはぜんぜん出ない)。しかし、英語がちょっとできるだけで、Webで自由に読める古典が山ほどあるということを考えあわせると、アジアの片隅にありながらその思考様式においてほとんど西欧文化圏にいるといって過言でないものの*6ハンディキャップを強く感じざるを得ない。


日本の翻訳文化は豊かなものらしい。しかし今後、Webという新しいメディアを中心にした「情報爆発」というような事態が訪れるであろう(むしろもう始まっている?)状況において、翻訳者たちがそれらをすべてを翻訳することはとてもできそうにないということを考えあわせると、つくづく「翻訳専門家に頼った海外文化紹介」というスタイルが時代に即さなくなりつつあるように思う。もしかしたら、「翻訳文化の豊かさ、翻訳者の層の厚さ」にあぐらをかく態度があだになって「取りこぼし」が増えていくかもしれない(サンデルブームという状況に、ロールズを「取りこぼし」たまま間に合わなかったように)。つまりこれは「なにを訳させるか」という翻訳者のリソース問題でもある。

もし、英語に関して翻訳いらずの国民になり、「翻訳者というリソース」を他の言語に回せるようになれば、経済的・文化的両面の意味で日本もずいぶん違うだろうに――

翻訳依存を減らせというのは賛成だ。ただ、いくら(少なくとも高学歴の)日本人が日英バイリンガルになったとしても、やはり「翻訳」は必要だろう。これを読んでいる人は誰も私より英語力があるとは思うが、それにしても母語である日本語の文章は英語よりも数倍は速く読めるでしょ。それだけではなく、訳書には詳細な訳註というものがあるし。
それから、ジョン・ロールズ翻訳の遅れの問題の本質はマイケル・サンデルのブーム*7に間に合わなかったということではなく、訳そうとしたら既にロールズ先生がこの世にいなかったということだろう。

ところで、円高が再燃している昨今、洋書の売り上げは伸びているのか。洋書こそ円高差益の最たるものだろうに。

*1:http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/kanjinai/20080805/1217942261

*2:勿論問題はそれだけではないし、当然のことながら読みにくければいいというものでは断じてない。言語表現一般における〈わかりやすさ至上主義〉への批判としてはhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100104/1262578368を参照されたい。

*3:http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/dos117.htm

*4:http://book.geocities.jp/ifujii3/

*5:Eg. http://www.geocities.jp/ifujii1/

*6:http://d.hatena.ne.jp/islecape/20090720/p1

*7:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100826/1282791969