大和魂(メモ)

山本幸司「合戦における智謀と機略――騙りの哲学(三)」『図書』740、pp.22-26、2010


少しメモ;


一般に「やまと心」とか「やまと魂」とか言うと、軍国主義的な日本民族固有の気概あるいは精神といったものを思い浮かべるだろう。だが一般に古代から中世にかけての頃、「やまと心」「やまと魂」は世才・世智と呼ばれる類の、具体的・実践的で狡智にもつながるような智恵のあり方を指していた。このやまと心こそ、武士の機略と通じる考え方なのである。(p.25)
「やまと心」の例。先ず明法博士清原善澄(『今昔物語』);

七十余歳になる善澄は、「道の才は並無くして、古の博士にも不劣ぬ者」といわれるほどの学識の持ち主だった。ある時、善澄の家に強盗が入った時、善澄はうまく板敷の下に身を隠したので、盗人に見つからずにすんだ。盗人たちは物を取り家を荒らして、罵り合いながら引き揚げようとする。その時、善澄は悔しさのあまり、門外に走り出て、引き揚げていく強盗に、「お前たちの顔はしっかり見たから、夜が明けたら検非違使別当に訴えて捕らえさせてやるぞ」と喚いた。それを聞いた盗人たちは走り戻る。慌てた善澄は家に逃げ込んで、また板敷の下に入ろうとするが、慌てているのでうまくいかない。遂に 盗賊たちに引き出され、大刀で打ち殺されてしまった。こうした善澄の行動を、『今昔物語』は「善澄、才は微妙*1かりけれども、つゆ和魂*2無かりける者にて、此る心幼き事を云て、死ぬる也」と評している。この評にある「心幼い」つまり幼稚で思慮が浅いのが、やまと心が無い人間なのである。(p.26)
また、藤原時平(『大鏡』);

醍醐天皇が奢侈を戒めた際に、なかなかうまくいかなかった。そこへ左大臣の時平が禁制を破る華美な服装で参内したので、天皇は不機嫌になり、時平の服装はあまりに華美であると言って、退出させるよう官人に命じる。時平の権勢を恐れた官人がおそるおそる天皇の命令を伝えると。時平は恐れ入って慌てて退出し、一月ばかり謹慎していたので、他の貴族たちも奢侈を慎むようになった。しかし実は、この一件は天皇と時平とがあらかじめ示し合わせて行ったことだったという話である。時平は菅原道真を陥れた人物として悪名が高く、『大鏡』も悪事を働いたために子孫は絶えてしまったと、時平を否定的に評価しているが、この話に関してだけは、時平のことを「やまとだましひなどはいみじくおはしました」と誉めているのである。この場合のやまと魂は、思慮深く、機略に富んでいることを意味している。(略)「やまと心」というのは知性の働き方の問題であって、倫理的な是非ではないのである。(ibid.)
武士の「智謀」の例として挙げられている佐々木道誉は頗る面白い;

南北朝動乱末期の一三六一年(康安元・正平十六)十二月、細川清氏楠木正儀らの南朝勢が、二十日間ほど京都を取り返すという事件があった。この時、北朝の将であった道誉は、京都から落ちるに当たって、自分の宿所へは主立った南朝の大将が入るだろうと言って、宿所を立派に調えて立ち退く。その様は、六間ある会所には大きな文様を散らした高麗縁の畳を敷きならべ、本尊・脇絵・花瓶・香炉・鑵子・盆に至るまで、一様に皆置き調えて、書院には王羲之の草書の偈、韓愈の文集、寝所には沈の枕に緞子の夜具を取りそろえ、さらに宿直の侍の居室には、鳥・兎・雉・白鳥を三本の竿に懸けならべ、三石ばかり入る大きな竹筒には酒をたたえるという凝りようで、しかも時衆を二人止めおいて、誰でもこの宿所にやってきた人には一献すすめるようにと、詳しく言い置いた。
道誉の宿所に初めにやってきたのは楠木正儀だが、その面前に二人の時衆がまかり出て、一献おすすめするようにとの道誉の申し置きでしと出迎える。連れの清氏は宿所を壊して焼き払ってやろうと息巻いたが、道誉のやり口に感心した正儀が制止したので、屋敷は泉水の木一本、客殿の畳一枚も損じることはなかった。その上、正儀は感心したあまり、自分が退去する時には、酒肴も前以上のものをそろえ、寝所には正儀が秘蔵していた鎧と銀飾りの太刀一振りを置き、郎党二人を残して、道誉と再び交替する。(後略)(p.24)

*1:「めでた」(ルビ)

*2:「やまとだましひ」