「一門」

http://www.yomiuri.co.jp/sports/sumo/news/20100130-OYT1T01005.htm


角力用語としての「一門」の解説。
曰く、


かつては一門ごとに地方巡業を行い、収益を所属の各部屋に配分するなど経済的に結びついていた。だが、57年に力士と親方の月給制が導入され、巡業も協会主導となった。65年初場所からの「部屋別総当たり制」の実施で、それまでなかった同じ一門の力士の対戦も組まれるようになり、普段の存在感は薄くなった。

 だが、相撲部屋と親方、力士、行司らは原則としていずれかの一門に所属。横綱の綱打ちには一門の力士が動員され、土俵入りの露払いや太刀持ちも一門の幕内力士が務める。東海学園大の服部祐兒准教授(元幕内藤ノ川)は「結婚式には一門の親方や関取を全員招待。有望な力士がいれば、一門の親方が協力して横綱大関に育てる。今も仲間意識が強い」と説明する。

結局、「一門」とは「理事選で結束する「派閥」」(タイトル)ということなのだが。以前、

2005年6月の日本における最大のニュースというのは、放送時間とかでカウントすれば、〈爆弾〉を教室に投げた山口県の高校生とか両親を殺して草津温泉に行った東京の高校生などを押しのけて、若貴の兄弟確執だろう。この騒動で感じたことの一つは、TVのワイド・ショウとかの言説が、騒動を核家族或いは(嫁姑問題が絡む)直系家族の争いとして語っていたことだ。そんなの当たり前だろうといわれるかもしれない。しかし、相撲の世界というのは、そもそも核家族乃至は直系家族としての部屋の集合体としてあるのではない。二所ノ関とか出羽海といった特定の部屋を本家とするイエ(一門)から形成される社会だったといっていいだろう。しかしながら、今回の騒動では、「一門」については語られないし、「一門」として発言する親方衆もいなかった。そもそも二子山というのは、二所ノ関一門の分家にすぎなかった筈である。分家のゴタゴタなど、本家が、或いは一門の長老衆が上手く取りはからうというのがイエ制度の流儀ではないのだろうか。或るワイド・ショウでは、「一門」について、〈自民党の派閥〉に喩えて説明していた。現代の視聴者にとっては、イエ制度などよりも〈自民党の派閥〉の方がよっぱど(sic.)リアリティがあるということになる。ということで、二子山親方の死去に端を発する今回の騒動で再確認したのは、中世に確立され、戦後の新民法で公的な制度としては終わり、〈封建遺制〉ということになったイエ制度が、客観的な制度としても主観的なリアリティとしても、終わっているということだった。そういえば、貴ノ花*1親方は〈一代年寄〉だけれど、この一代年寄というのは、男女の結婚によって創設され、どちらかの配偶者の死去によって消滅する〈近代家族〉と同型である。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20050629
と書いたことがある。
ところで、記事には「現在の一門では、明治初期に初代高砂浦五郎が築いた「高砂*2が最も古」いとあるが、出羽海の方が古いんじゃないだろうか。出羽海部屋のサイトには、「寛政末年」に「出羽ノ海金蔵(後の運右衛門)、年寄資格を得て出羽ノ海部屋開祖となる」、1862年に「初代常陸山桂川立吉)、出羽ノ海として年寄専務となる」「1809年より途絶えていた出羽ノ海の名跡を再興する。現・出羽海部屋の創設者」とある*31862年はまだ江戸時代。片仮名の「ノ」が取れて「出羽海」になったのは1949年だけれど。
さて、貴乃花親方はめでたく日本相撲協会理事に当選したということだが、俺にとっては、タカノハナということで馴染みがあるのは、その父親である元大関で、後に二子山親方になった貴ノ花、つまり故花田満氏の方だ。彼が現役を引退して最初に襲名したのは「藤島」だったが、この「藤島」という年寄株二所ノ関ではなく、出羽海系で伝えられてきたものだった*4。やはりこの一家は「一門」空洞化の先駆けだったのか。因みに、現在「藤島」は出羽海一門に戻されている。