「腐った枝」

承前*1

『朝日』の記事;


阿久根市長「腐った枝、刈らないと」 障害者の記述巡り(1/2ページ)

2009年12月22日1時40分


 自身のブログに「高度医療のおかげで機能障害を持ったのを生き残らせている」と記述し、障害者団体などから批判を浴びた鹿児島県阿久根市竹原信一市長が21日、福岡市内での講演でこの話題に触れ、「木の枝の先が腐れば切り落とす。そうしないといけない」「表現として厳しいが刈り込む作業をしないと全体が死ぬ」などと発言した。

 講演後の記者会見で竹原市長は「『腐った木』とは障害者を指したのか」と聞かれ、「違う」と否定。「どういう意味だったのか」と繰り返し質問を受けたが、「答えない」「新聞は言葉狩り」などと言って回答を拒んだ。

 講演会は、福岡市内の民間信用調査会社が企画。集まった会社経営者ら約20人を前に、竹原市長は約40分間、マイクを握った。

 講演では障害者に関する記述について「差別と言われるが、ああいう視点は私にはわからない」と批判を無視。自らの死生観に触れ、「みなさんもいずれ死ぬ。植物を考えればわかる。葉っぱや花が散って土壌になる。私たちは葉っぱ、枝」などと表現。その上で「社会は木を育てるようにしないといけない。木の枝の先が腐れば切り落とす。全体として活力のある状態にする」などと語った。

 障害のある子どもの世話の大変さにも触れながら、「社会をつくることは命の部分に踏み込まないとダメ。表現として厳しいが、刈り込む作業をしないと全体が死ぬ。壊死(えし)した足は切り取らないと。情緒で社会をつくることはできない」とも語った。

 講演では、障害者に関する発言のほか「問責決議を受けたが、慣れているのでなんともない」「団体交渉に従う義務はない」などと発言した。

 竹原市長はさらに持参したウクレレで自作の替え歌も披露。反対派の市議会議員に対して「市長下ろしを考える 次の選挙は忘れてる」、市役所職員には「定期昇給考える 退職手当を考える 組合運動考える」などと皮肉り、自身の仕事については「裁判対策考える あ〜やんなっちゃった」とおどけた。講演後、聴衆からは拍手が起こった。

 ブログでの障害者の記述は現在、「修正中」となっている。

         ◇

竹原市長演説の該当部分の詳細は以下の通り

 「この間の障害者の件で、差別と言われるが、ああいう視点は私にはわからない。命は一つだと思っている。人間も動物も地球も。そういう感覚がある。なんでああいう言い方するのか。考えていくと、みなさんは生と死をわけている。今までたくさんの人が生まれて死んだおかげでみなさんがいる。みなさんもいずれ死ぬ。死と生が一体」
http://www.asahi.com/national/update/1221/SEB200912210037.html
「植物を考えればわかる。葉っぱや花が散って土壌になり、木を育てる。私たちは葉っぱ、枝。その中で、権利とかいうことで、より多く自分のところに養分よこせと言っている。たまたまいろんな役割をしているのに。葉っぱは葉っぱ、枝は枝。人生は金取り競争ではいけない。勝ち組、負け組を分けられない。生ごみ残して死ぬだけと、なんで了解できないのか」

 「社会は木を育てるようにしないといけない。木の枝の先くされば切り落とす。そうしないといけない。全体として活力ある状態に。ゆうべ、日テレで『アラームにかこまれた命』というのをやっていた。NICUで未熟児で障害児が生まれてしまった。それをどんなことしても生かす医療システムがある。のどにも胃にも穴をあけて、24時間見張る。栄養はチューブで入れる。そこで2年間。病院の扱いがひどくて、お母さんが家につれて帰る。お母さんは眠れない。2年半も。そういうことやっていいのか。それを止めるのは殺人となる。私のところに今回の件でメールがきた。こういう状態の人から。疲れて寝てしまった間に死んでしまったと。そういうのがけっこうある」

 「要は、社会をつくるということは、命の部分にふみこまないと駄目。表現としてきびしいが刈り込む作業しないと全体が死ぬ。壊死(えし)した足は切り取らないと。それで全体を生き残らせる。誰も踏み込まないから、命が失われつつある。それが今の政治、社会の現実。情緒で社会をつくることはできない」
http://www.asahi.com/national/update/1221/SEB200912210037_01.html

彼の言説の差別性というのは別に私がいわなくても他の誰かがいうだろう。ここで指摘しておきたいのは、彼の〈社会理論〉が典型的な〈社会有機体論〉*2であることだ。何しろ、「社会」を(有機体としての)1本の「木」に喩えているわけだから。現代を代表する〈社会有機体論〉としては、北朝鮮の〈主体思想〉があるわけだが、この点において、竹原信一というのは金日成金正日の知的親戚であるということはできる。有機体とはいっても、動物ではなく植物であるところは、北朝鮮よりも〈亜細亜的〉なんだなと妙なところで感心してしまう。
竹原信一の言に対しては、小泉義之『病いの哲学』から次の一節*3を対照として、書き出しておくことにする;

障害者、とくに生来の障害者は、生体として捉えるなら、何も欠けるところはないし、何も余るところはない。欠如も過剰もない。一般に、受精卵が子宮・胎盤内で発生し分化を遂げるということは、極めて困難な過程である。器官や組織や生理システムに若干の変異があるだけで、また、染色体や遺伝子に若干の変異があるだけで、流産や死産の憂き目にあう。発生過程における生物的に不出来なものは、子宮・胎盤内における強力な自然選択によって、生まれる以前に、まさに不出来の字義通りに、出来上がらずに死ぬのである。だから、この過酷な過程を凌いで生まれ出て来たすべてのものは、出来上がった完成したものとして、アリストテレスの用語では完全現実態として受け止めなければならない。付け加えるなら、だからこそ、障害を予防すると称して生殖系列を遺伝子操作しても、完全現実態として生まれるはずの受精卵を損なうことは間違いないのである。この意味で、生まれ来る障害者には何の欠陥もないのであり、そもそも障害者と呼称すること自体が間違えていることになる。障害はまさに社会的に構築された概念である。(pp.166-167)
病いの哲学 (ちくま新書)

病いの哲学 (ちくま新書)

また、同じ小泉氏の(出たときは、理系方面からの評判は悪かった)『ドゥルーズの哲学』もマークしておく。
ドゥルーズの哲学 (講談社現代新書)

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