金関丈夫と「人種民族学」(メモ)

承前*1

阿部純一郎「20世紀前半日本の人種・民族研究における「異種混交」現象への応答――自然/文化科学の境界線をめぐる論争――」『名古屋大学社会学論集』29*2、2009、pp.21-46


第5節「「人種民族学」の構想――金関丈夫の場合」。


金関は、1923年に京都帝大医学部を卒業後、同学部の助手・助教授を務め、足立文太郎(解剖学)、清野謙次(形質人類学)、浜田耕作(考古学)から教えを受けた。1928年に清野謙次との共著『人類起源論』を刊行した金関は、『民俗学』休刊後に岡書院が進めていた『ドルメン』(1932.4-1935.8)の創刊計画に参与し、自らも多数の論考・訳文を寄稿している。1936年に台北帝大教授に任命され渡台、各地で形質人類学的調査をおこなう傍ら、日本人と台湾人共同の雑誌『民俗台湾』を編集人として牽引した。敗戦後も中華民国国立台湾大学教授として残り、帰国したのは1949年である。(pp.37-38)
岩波文庫版『木馬と石牛』の編者大林太良の「解説」によると、金関は「帰国後は、九州大学島根大学山口大学帝塚山大学の教授を歴任し、一九八三年に亡くなった」(pp.342-343)。また、大林曰く、

金関丈夫というと、多くの人は九州大学教授時代の彼が指揮した山口県土井ヶ浜の発掘でその名と業績を知っているかもしれない。一九五三年から五七年にかけて、この日本海岸の弥生遺跡から一五七体の人骨が出土した。これ以前に出土したもの、一九八〇年からの発掘の分も加えると、三〇〇体にも上っている。金関は土井ヶ浜人の形質が縄文時代の遺跡から出土した人骨と大きく相違していることから、土井ヶ浜人は弥生文化とともに大陸から渡来した人々を表しており、縄文人弥生人の混血によって、その後の日本人が形成されたのだと考えた。金関のこの説はその後の研究者によって一層発展させられ、今日の日本人形成論の基礎となった。(p.341)
新編 木馬と石牛 (岩波文庫)

新編 木馬と石牛 (岩波文庫)

阿部論文に戻る;

金関の学問はしばしば「金関学」と評されるように、近代の学問ジャンルに回収するにはあまりに広大な射程をもつ。実際、彼が書き残した文章は、専門の解剖学や形質人類学をベースにしつつも、そこに考古学、歴史学民族学民俗学言語学、文学などの多分野の知識が織り重なっているところに特色がある。(略)金関が精力的に調査研究を開始する1930年代は、日本の人種・民族研究が自然/文化科学、あるいは人種学/民族学民俗学へと専門分化を進めていく時期と重なっている(後略)(p.38)
金関の研究が「レイシズム」、「オリエンタリズム」だという批判;


川村湊『「大東亜民俗学」の虚実』講談社、1996
川村湊植民地主義民俗学民族学」in 『民俗学がわかる。』(AERA Mook 32)、1997
小熊英二金関丈夫と『民俗台湾』」 in 篠原徹編『近代日本の他者像と自画像』柏書房、2001

民俗学がわかる。 (アエラムック (32))

民俗学がわかる。 (アエラムック (32))

「台湾時代に出版された『胡人の匂ひ』(1943)には、さまざまな人種・民族の体臭(腋臭)に関する説話や、身体を加工・変形する儀礼風習(纏足、抜歯等)に関する資料が大量に収録されているのだが、この点についても川村は、金関がこうした「奇習」、「悪趣味」な話題に関心を示しているのは、まさに金関の「エキゾチシズム」(支那趣味)の反映にほかならないとする」(ibid.)。

「1930年代の人種/文化・民族研究の分断化へのひとつの応答として」の「金関学」。また、「金関が戦後、戦前の論考を「人種民族学」と名付けていることの意味」(ibid.)。

三川目四「縦横人類学」(『季刊人類学』1-4、1970、pp.152-169)と、それに対するリプライ、山中源二郎(=金関丈夫)「『縦横人類学』を読む」(『季刊人類学』2-2、1971、pp.237-240)。


三川がこの論考で扱っているのは、西欧の「普遍的」「客観的」な科学とは別に、各地域の民衆レベルで蓄積されてきた独自の知識体系、なかでも他民族の身体的特徴に関する噂や言い伝え――眼や髪の色から生殖器の形状にいたるまで――の類である。三川によると、この種の民間伝承は、なるほど人間の身体を主題としているが、それは「自然人類学」の問題ではない。なぜなら、そのような噂話の根拠となるような形質学上の事実などありはしないからだ。だがそれは、こうした民衆の知識が、学問的に無意味だということでも、無意味だといって済まされる問題でもないという。「なぜかといえば、このような他民族に対する身体的差別の思い込み、先入観、誤解こそが、すべての人種問題の根底にあるからである」(三川,1970:167)。この認識から三川は、各地域に伝わる身体面に関する知識を、その無根拠の前提をもすべて包み込んだところの「文化」の問題として捉え返そうとする。そしてこの研究分野を、当時のfolk-scienceやethno-scienceといった用語法にならい、各民族の自然人類学的知識の探究というような意味で、「民族人類学ethno-anthropology」と名付けた。(p.39)
阿部による整理;

(前略)民族人類学の独自性は、その分析対象を、(1)*3文化人類学からは人種に関する事柄として周辺化され、かつ(2)自然人類学からは非科学的として等閑視されてきた身体面の知識に設定したことである(略)三川は、民衆の身体的差異に関する知識と実践とを、文化人類学の俎上に乗せるという姿勢において(1)を批判しているが、しかしその矛先は、従来これらを非科学的としてきた自然人類学の価値基準そのもの((2))には向かっておらず、むしろ自然人類学の主題ではないと認めることで、それを温存ひいては強化してしまう可能性がある。(pp.39-40)

それに対して、金関は、この身体面に関する知識を、自然人類学(金関の言葉では「人種学」)の領野から解き放つという意義には同意しつつも、それらを文化人類学(「民族学」)の領野に完全に預けることには距離を置いている。それを示すのが、三川の民族人類学(「民族人種学」)を反転させた「人種民族学」という言葉である。そして、この点を説明するために参照されているのが、実は、台湾時代から金関がその民俗資料を熱心に収集してきた身体の加工・変形現象なのである。
ある民族独自の文化や慣習によって引き起こされる身体の変形現象は、金関にとって、既存の自然人類学に対してその方法論的限界を突きつけるものであった。(後略)(p.40)
「台湾や海南島の一部の住民にみられる後頭部が扁平化している事例」(ibid.)。G. ハロワー「海南島中国人の頭蓋の調査」(1928)という論文で、
ハロワーは、海南島華僑の男性頭蓋を計測し、その著しい後頭扁平(つまり長幅示数では短頭型、長高示数では高頭型)を報告した。しかしこの結果を、当時その言語や風俗から海南島華僑の出身地と見なされていた福建省の男性頭蓋についてハロワー自身が算出した計測値と比べると、後者は短頭型・高頭型ともに少なかった。しかもハロワーのいう「海南島中国人」とその他の中国人との測定値の差は、英国人と中国人との差よりも大きく、それゆえ彼の測定値をそのまま受け入れると、「福建人と海南島出身華僑とは、たとえその言語系統や風俗を同じくするとしても、人種としては全然別個の人種だと言わなければならない」ことになる(金関,1947*4:170)。(略)
(略)先の後頭扁平についていえば、幼児をおぶったり寝かしたりする際に頭部を固定する育児法や、荷物を運ぶときに頭部に負載する運搬法といった、当該地域に広がっている風習を考慮に入れる必要がある。つまり、海南島住民の所属人種を確定するさいには、その頭骨の測定値から文化的変型の影響を差し引かなければいけないというのである。注意すべきは、金関はここで人種の画定作業そのものを否定しているわけでも、この文化的変型は文化人類学の主題だと主張しているわけでもないという点だ。そうではなく、この現象は自然/文化人類学の境界事例であり、両学問の知識と方法論とを総動員しなくては解けない問題だというのである。
金関が纏足や抜歯に関心を抱いたのも、これと同様の問題関心によるものであって、単なるエキゾチシズムといって退けることはできない。金関によると、纏足は「足骨」だけではなく「下腿骨」、さらには「大腿骨」「骨盤」「腰柱」「上肢の長骨」にも変化をもたらし、結局「全身骨を繊細にする」(金関,1940a*5;1943b*6)。そのため、纏足風習が伝わっている地域(福建系台湾人等)の人骨測定には、その骨の所属民族について特に注意が必要となる*7。また、通常、纏足は女性の風習と思われているが、古文献をひも解くと男性例も散見されるため、纏足骨=女性骨という性別鑑定も一般化できない(金関,1943c*8)。台湾の「高砂族」(タイヤル族ブヌン族、ツォー族等)に広がる抜歯風習も、同地域で発掘された頭骨の歯槽部は所属民族の判定材料となる(金関,1940c)。さらに台湾の高砂族や東南アジア一帯に伝わる「Vagina Dentata説話」(女性器に歯の生えている娘の話)*9への金関の関心も、「本説話を有する民族は、過去において欠歯風習を有してゐた」という仮説の下で理解すべきである(金関,1940b*10;1943d*11)。(pp.41-42)

(前略)金関が身体面に関する民俗資料を熱心に収集したのは、それらを自然人類学から文化人類学の領分へと差し替えるためではない。むしろ彼は、自然人類学とは明確に区別されたところに文化人類学の固有の領域を確保するという発想に異を唱えたのである。なぜならそうした棲み分けは、自然人類学に対抗して「文化」の重要性を強調する論者の意図に反して、自然人類学による「身体」への内閉化、そして「文化」の外部化を後押しするからである。金関が注目した身体の文化的変型は、こうした密室の中で「不問」とされていく人種決定論的な思考法を、まさにその内側からこじ開けるための鍵となる現象だったといえよう。(p.42)

*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091103/1257222859 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091203/1259813849 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091205/1259982847 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091211/1260555922 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091214/1260817819

*2:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090601/1243821238

*3:原文は丸囲み数字。

*4:海南島東南部漢人の後頭扁平について」、『形質人類誌』(法政大学出版局、1978所収。

*5:「台湾における人骨鑑定上の特殊事例」、『形質人類誌』所収。

*6:「纏足の効用」。岩波文庫版『木馬と石牛』に再録されている。

*7:漢族でも、客家には纏足の習俗はない。

*8:「男子の纏足」。これも岩波文庫版『木馬と石牛』に再録されている。

*9:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090804/1249412378

*10:「Vagina Dentata」。これも岩波文庫版『木馬と石牛』に再録されている。

*11:アイヌにも欠歯の風習があつたか」。『胡人の匂ひ』(1943)に収録。