北沢on 角力

承前*1

http://blog.goo.ne.jp/maya18_2006


北沢方邦氏のblog。http://b.hatena.ne.jp/PledgeCrew/にて知る。
その中から、角力について書いてある箇所をメモ;


近年、外国人力士の活躍に比べ日本勢がふるわないのにはいろいろ理由がある。ひとつはモンゴル勢のように足腰が強くない。昔、双葉山や初代若乃花のような大横綱・名横綱は、少年時代、沖仲士や仲士といった仕事をしていた。いずれも貨物船の船倉から荷物を運びだし、渡し板を渡ってダルマ船とよばれる平底の木造船や岸壁に荷を下ろすものである。私も敗戦直後、生活のために芝浦埠頭で仲士をした体験がある。米軍の輸送船の船腹から食料品の重い木箱をかつぎだし、渡し板を渡るのだが、バネのようにしなう板のうえでバランスを取るのは至難の業であり、一歩間違えば荷物ごと海中に転落することになる。ああ、これで双葉山は足腰を鍛えたのだな、と実感したものである。 

 いまのわが国には、そのような力仕事はほとんどない。横浜や神戸の埠頭にはクレーンが林立し、コンテナーを吊り上げ、積み下ろす現場には人影もない。だがモンゴルでは、たとえ都会暮らしのひとであろうとも、休暇や週末には草原のゲル(天幕家屋)に赴き、馬に乗る。乗馬ほど足腰や身体のバランスを鍛えるものはない。 

 もうひとつの理由は、人類学的にいえば神話的思考の有無である。はじめての外国勢で成功したのが、高見山小錦、曙、武蔵丸といったハワイ勢であるのも象徴的である。先住ハワイ人(武蔵丸は米領サモア生まれだが、のちにハワイに移住した)、つまりポリネシア人である彼らは、儀礼舞踊フラが示すように、いまなお神話的世界に親密である。たくましい男たちがハカ(戦士の踊り)を奉納する戦争神クーや、荒ぶる火山の女神ペレなど、神々は身近に生きているのだ。 

 モンゴル相撲の勝者が、天の神々の使者である鷲の舞を舞って勝利を報告するように、伝統を排除した社会主義の一時代があったにもかかわらず、モンゴルにもいまなお神話的思考が生きている。 

 荒ぶる神々や女神たちの御魂を鎮め、豊饒をねがう儀礼の格闘技であるわが国の相撲は、彼らにとってなじみのないものではまったくない。ヨーロッパ勢にとって相撲は異国的なレスリングにすぎないようにみえるが、モンゴル勢にとってそうでなくみえるのは、たんに容貌がわれわれに似ているというだけではなく、神話的思考に根ざすものがあるからだ。 

 現代の日本人よりも彼らのほうが、はるかに相撲道の本質を理解し、体得しているのかもしれない。それもよいのではないか。誤った国際化によって日本式レスリングと化した柔道と異なり、これこそが日本の伝統文化の国際化だからである。
http://blog.goo.ne.jp/maya18_2006/e/07363ce96fef6eed2103beb04719bef0

こういう雄大な(大仰な、という勿れ)思考は嫌いではない。

See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070202/1170416965 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070830/1188468360 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080116/1200506920 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20081108/1226169912