承前*1
http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20091120#p1
田中秀臣氏、日本政府の「デフレ宣言」について語る。植草一秀「デフレ」論と読み比べてみるべきだろう。少し引用;
また、http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20091121#p4では
ところでこのブログを過去からよくご覧の方は、この00年代の景気回復と称される期間もずっと経済は実質デフレ状況にあったこと(コアコアインフレ率がマイナス、GDPデフレーターの低位推移など)を指摘してきた。確か若田部昌澄さんか中原伸之さんだったかが新聞のコメントで、いまから3年前のゼロ金利解除、量的緩和政策の終了時に、ちゃんと将来のリスクを織り込んで出口政策を採用したのかを日銀の問うていたと思う。そして去年の頭に書いたこれを読むとゼロ金利解除時から日本銀行が何度も将来予測を下方修正していることで「シナリオ通り」という発言を繰り返していることもまとめた。http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20080115#p4。これは単純にいって戦局の悪化を「大勝利」=シナリオ通り、と言い続けて、気がつけば本土決戦を説いていた日本の戦時中のアナウンスとまったく同じ政治的なマインドによるだろう。
基本的な認識は日本銀行はまったく変化していない。むしろ白川総裁になってなにもしない路線が定着しつつある予感さえある。僕が一番懸念するのがこの20年間に繰り返されたことが、数年後、また繰り返されるのではないか、ということだ。
とまで言っている。勿論、「邪推w」と自ら註しているわけだが。
日本銀行が露骨にデフレの定義すらも回避している現状での、政府のデフレ宣言は、一見すると政府の危機感の表れにみえるけれども、本当にそうなのかな?むしろ日本銀行筋の工作でもあって(邪推w)、政府にデフレ定義の責任を転嫁するような形にもみえるわけで。デフレは政府の問題で、日本銀行の問題ではない、という形になってしまっている。しかも政府がデフレを解消する意欲がどうも伝わってこない。もちろん政策は欠如している。このままいくと政策の欠如も、デフレ解消できない責任も、政府はとるはめになるかもね。
もしかして、TK(田中&勝間)を仮想敵とした植草一秀−池田信夫連合(UI連合)が形成される可能性もあるんじゃないか。UI=友愛というのはたんなる偶然。
さて、http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20091121#p6にて、岩田規久男へのインタヴュー「デフレを放置し続ける日本銀行は、もういらない」*2が紹介されている。少し抜き書き;
日銀はインフレに対しては非常に敏感ですが、デフレに対しては冷淡です。ある程度のデフレに対しては物価安定の範囲内だと容認してきました。
しかしデフレを放置していては経済成長は望めません。物価が下がれば買い物はしやすくなるかもしれませんが、消費者は同時に労働者すなわち供給者ですから、物価が下がれば企業の売上げが減り、ひいては賃金も下がります。また企業にしてみても設備投資ができなくなりますし、借金のある会社はそれが返せず倒産に追い込まれるかもしれない。そうなると失業率が高くなるため、経済成長はますますむずかしくなる。
もう一つ、デフレは円高要因になる。過度の円高になると輸出は伸びないし、空洞化が進む。とくに地方経済は製造業に支えられているところが多いため打撃が大きい。さらに観光に頼っている地方も、円高になれば海外に旅行客が奪われてしまう。これも停滞要因です。これでは内需主導になりません。
このように経済が安定的に発展していくためにはデフレは絶対に阻止しなければなりません。日銀はそうならないような金融政策を取っていない。そこが問題なんです。
―― デフレを放置する日銀の考え方というのはどういうものですか。岩田
それが日銀流理論です。
日銀流理論とは「日銀当座預金や日銀券の増減は民間の貸し出しの増減によって起きるものであって、日銀が直接統制に訴えることなしには日銀当座預金と日銀券の残高を金融政策によって操作することはできない」というものです。
つまり貨幣の流通量というのは民間の需要に基づくもので、中央銀行がコントロールすることはできないというのです。金融政策によってデフレを脱却することはできないと言っているに等しい。しかし民間の需要に合わせて貨幣の流通が決まるというのであれば、金融政策になりません。金融政策ができないのであれば、日銀なんていらないことになります。資金需要がありすぎるときはインフレにならないように抑制し、需要がないときには喚起するような政策を行うのがもともとの日銀の仕事です。ところが日銀流理論は自らの仕事を否定するものです。だとしたら日銀はなんのためにあるのか。