「寛恕」(メモ)

梁文道「対不起甚麽」(in 『我執』*1、pp.55-56)から;


寛恕、首先要有一座劇場、一個舞台、以及両個角色:一個是犯了錯的罪人、另一個是受害者。不可能也不応該有第三者的存在、因為没有人可以代替罪人請求諒解、也没有人可以代表受害者施予寛容。(p.55)

寛恕舞台上的第一句台詞“対不起”的真正意思、就是“対不起、請原諒我占用你這一刻的時間、也請原諒我這麽無頼地煩着你、要你聴我接下来的話”。(p.56)
また、「不可饒恕」(pp.57-58)では、デリダを参照して、

看起来寛恕是一種遺忘、当我説“我原諒”(I forgive)你時、我也応該同時忘却(forget)了你的過去。然而“過去”真的過得去嗎?有時候我們会説某種罪悪、例如反人類的罪、大規模屠殺的罪、種族絶滅的罪、是不可忘却、不可挽回、不可救贖的。換句話説、這些罪行雖已過去、但又是過不去的、雖已成往事、但不能忘却;它們是種永遠被封存在現在的過去。它們無法過去、其中一個原因是受害者都已逝去、没辦法接受罪人的懺悔。而且就算有在世的幸存者、又怎能代表死者接受懺悔?又怎能代表死者原諒凶手?這様的重罪或許有被遺忘(forgot)的一天、却永遠不会得到寛恕。

寛恕在此、是一種和時間的特殊関係、是一種決定譲不譲某件錯誤或罪行成為過去的行動。假如寛恕是有条件的、假如寛恕要求犯罪的人首先請求寛恕、那麽該如何解決因逝者不在而注定不能得到原諒與和解的重罪呢?因此、在亜伯罕*2的思想伝統裏需要有上帝的存在。人只能寛恕別人対自己做錯的事、神則不然。神是受害者與罪人之外独一無二独有権柄的第三者、他可以寛恕所有的罪、接受所有的悔過。

殺しが他の罪と異なるのは赦されることが不可能であるということ。私を赦してくれるべき被害者は既にこの世にいない。また殺しでなくとも、仮令些細な罪であっても、或いは罪ではないような些細な誤解に属するようなことでも、相手がこの世にいなければ、私が赦される機会は失われてしまう。勿論、赦される前に私が先に死んでしまっても。だからこそ、ストレイト氏はトラクターに乗って兄に会いに行ったわけだ。
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デリダは「正義と赦し」の中で、

赦しがあるためには、取り返しのつかないことが思い出され、それが現前し、その傷が開いたままでいることを要します。もし傷が和らぎ、癒合したら、赦しの余地はもはやなくなります。もし記憶が喪失や喪や変形を意味するならば、そのときは記憶はそれ自体、すでに忘却になります。このような状況の恐ろしい逆説とは、そのような赦しを与えるためには、たんに加害や犯罪を被害者が思い起こす必要があるだけでなく、そのような喚起が、傷が加えられたときと同じくらいになまなましく傷と痛みを呼び起こすのでなければならないということです。(pp.202-203)
と語っている。
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