赤羽橋

西村直子「赤羽橋」『中央公論Adagio』16、2009年8月、p.22


麻布の方に「赤羽橋」(江戸時代の表記では赤羽根橋)があるが、そこには久留米藩(有馬家)の上屋敷があった。現在は日本橋蛎殻町にあるそうで有馬の水天宮も元々この藩邸内に祀られており、日本橋に移ったのは明治5年。また、有馬といえば「猫騒動」の舞台もこの藩邸であり、藩邸跡に建てられた港区立赤羽小学校の裏手に「猫塚」あり。
ところで、「赤羽」というと先ず思い浮かぶのは北区の「赤羽」。何故この橋が「赤羽根橋」と呼ばれたのかということには、上の文章には言及なし。


家にあった伊東精介『銀座名バーテンダー物語 古川緑郎とバー「クール」の昭和史』(晶文社、1989)を一気読み。1916年(大正5年)生まれのバーテンダー、古川緑郎への聞き書きを中心とした本。日本における「洋酒」受容の歴史を知る。また、敗戦後のRAA=Recreation and Amusement Association (「特殊慰安施設協会」)の話(p.136ff.)が興味深かった。占領期の性風俗というと「パンパン」や「オンリー」が語られることが多いが、それは1946年3月にGHQがRAA施設への連合軍兵士の立ち入りを禁止し、施設にOFF LIMITS, VD(「梅毒汚染地帯」)という標識を立て、さらには施設が閉鎖され、失業した5万5000人の「慰安婦」が街頭に繰り出した後のこと(p.145)。また、当時の日本政府で占領軍向けの慰安施設の必要性を最も強調したのは、東久邇内閣の国務大臣近衛文麿(p.142)。勿論、RAAについては、ドウス昌代『敗者の贈物』があるが。

銀座 名バーテンダー物語―古川緑郎とバー「クール」の昭和史

銀座 名バーテンダー物語―古川緑郎とバー「クール」の昭和史