誠実の条件など

承前*1

池田光穂「他者の痛みと嘘つきのはじまり」http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/080428menti.html


曰く、


ヴィトゲンシュタイン(またはウィトゲンシュタイン)は『哲学探究』のなかで次のように書く。子供がケガをして泣いているのを見て、子供の痛みが泣き声を意味するというナンセンスなことを言わないだろう。そうではなく、反対に、子供に痛みがあるということを、子供の状況(=ケガをして血を流している)や泣き声やから判断しているのだと。われわれが〈痛み〉という経験を覚えるのも、泣いている子供に大人が語りかけて、子供が経験していることに言葉を与え、その後には文章を教えるだろう。子供は痛みを覚えたときにどのように振る舞うかを学ぶのであると。

われわれは他者の痛みがわかる(=ヴィトゲンシュタインは「知る」と表現)だろうか? 自分の痛みはわかる(でも、自分の痛みが「分かる」とはどういうことのなのだろうか?)。ちょうど子供が小さいときから学んできたように、どういう状態のときにそれが痛いのかわかり、痛い時にどのように振る舞うのか教えられてきたから、そうなのだろうか。そして実際に他者に的確に表現することもできるようだ。

ところが他者の痛みとなると、話はややこしくなる。他者が痛みに苦しむ時、われわれはたぶん「この人は痛いのだろう」と自分じしんの経験に照らして推測する。しかし「この人は痛いのだろう」という推測によって、他者の痛みがわかったということになるのだろうか。自分は同じ痛みを感じないため――もし感じたらそれは他者の痛みではなく自己の痛みにほかならない――ヴィトゲンシュタインが言うように「言語をもって痛みの表現と痛みとの間にはいることなど望みえ」ない。痛みと言語による表現の間に裂け目があったとは! いったい誰が想像しただろうか?

さらに彼は引き続き面白いことを言う。犬は痛がっているふりができない。だからと言って(文学的表現ではそのとおりなのですが)「犬は正直だ!」ということもナンセンスだ。痛みの言語表現をおこなうことと痛みの経験のあいだの裂け目があるからこそ人間は正しく?〈嘘〉をつくことができることになる。嘘は、子供が痛いことを他者に表現することを学ぶように、ことばを使うことにまつわるゲームであり、どこかでちゃんと学習される(=裂け目を知る)必要があるというのだ。

ヴィトゲンシュタインによれば、「嘘をつけない、あるいは他人が嘘をつくことを知らない人間は、無垢でもなんでもなくただの無能だということになる」。
また、デリダ(『言葉にのって』)曰く、

真実を話すためには、誠実であるためには、嘘をつくことができなければなりません。嘘をつくことができない存在なら、正直であることも誠実であることもできません。こうした可能性の概念は根本的なものです。このことは、虚言についてのアリストテレスプラトンのあいだの論争にもかかわってきます。プラトンにとっては、嘘をつく人とは、嘘をつくことができる人のことです。アリストテレスにとっては、嘘をつくことを決意している人のことです。できるという可能性はいつも存在していなければなりません。(略)人は真実を話すようプログラムされているとき、人は誠実であるとかどうとか言えないわけです。志向性重視の伝統を引き継ぎながら、カントは、私たちが正直で誠実であるようにおしすすめる役割をになっているのは、志向的な意志であると主張しています。たとえ、内在的なしかたで誠実さを検討する場合でも、つまり結果いかんを考慮せずに、したがって有用な嘘の概念*2と逆な形で誠実さを検討する場合でも、志向的な意志が問題となります。そしてそこにこそ、カントがその伝統の一部分に異議をさしはさんでいる点もあるわけです。真実を機械的なものにするような存在者の条件づけは、虚言の条件そのものである、意図性=志向性(intentionalite)の観念と矛盾するわけです。(pp.150-151)
これは、『法の力』で展開された決定不能性(決断不能性)と正義/自由/責任を巡る議論*3とも関連する。
言葉にのって―哲学的スナップショット (ちくま学芸文庫)

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法の力 (叢書・ウニベルシタス)

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ところで、池田氏曰く、

私は〈痛み〉は〈モノ〉でないことを、当の本人たちが知っているにも関わらず〈モノ〉のように言語的に表現されていることに興味をもつ。日本語の痛みが〈ある〉というのもそうだ。これに類似したものに〈嘘〉がある[→嘘問題*4]。「それは嘘だろう」という言及がそうだ。当然、物的証拠などに表象される「これが真実だ」「ここに真実が書かれている」という表現もそうだ。私はこのような痛みの物象化は、〈情動の物象化・モノ化〉であり、真偽、嘘と真実(本当)の物象化は、ある種の〈倫理・道徳の物象化・モノ化〉という別の系譜・系統の物象化・モノ化であると考えている。
これって、さらに一般的に言えば、抽象名詞の存立という問題? そういえば、古代希臘或いは羅馬的な想像力の(外から見て)凄いところは、そうした抽象名詞の多くが擬人化され、神様になっているところか。