自己と他者(メモ)

何だか「トリアージ*1が再流行しているようだ。「トリアージ」って夏風邪と関係があるのか。
さて、


http://d.hatena.ne.jp/rna/20080807/p1


ここで主に論じられている「非モテ」と「ヘイト・スピーチ」の問題*2についてはここでは言及しない。ただ、


そもそも「精神的に自立」した「ホントに強い人間」*3って、どう考えても少数派ですよ。いや、ボクは自立してるよ! 強いよ! って人はよくよく考えてみてほしい。例えばある日突然、周囲の女の子が汚いものを見るような目であなたを見るようになる。話しかけても無視され、近付けばあからさまに嫌な顔をされ逃げられる。これはいったいどういうことなのかと、親友に尋ねようと声を掛けると親友は脅えたような顔をして黙って逃げ出してしまう。「精神的に自立」した「ホントに強い人間」ならこんな状況でも耐えられるよね? 人を恨んだり荒んだりしないよね?

まあ、これは極端な話だけど、何気ない日常生活がどれだけ他人の善意によって支えられているか、何気ない言葉、何気ない態度、何気ない笑顔、そういったものに僕らがどれだけ依存しているかを思えば「自立」とか「ホントに強い」とか軽々しく言えないと思うんですよ。そこを軽々しく言えてしまうくらいの図太さ(誉め言葉です)があってこその自己肯定なのかもしれませんが。

という箇所のマージンへの落書き。
先ず、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080723/1216835361でメモしたように、「他者の視点」を想定しない限り、立体的に知覚することさえ覚束ない。また、他者なくしては〈私〉も存立し得ない*4。ここで、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080422/1208894806にて引用した大庭健『善と悪』の一節を再度引用することにする;

人‐間である、すなわち人の間にあるかぎり、各人は、そのつど他者に対して‐なにものかとして‐ある。(略)人‐間であるというときの各自の存在は、存在しているかぎり、どこまで行っても対他存在なのである。自己意識がどんなに先鋭で孤独であろうとも、そもそも自己が対他存在である以上、単独者としての自己意識もまた、他者によって‐意識されて‐ある‐ということの意識、を離れては成立しえない(略)。(p.62)
善と悪―倫理学への招待 (岩波新書)

善と悪―倫理学への招待 (岩波新書)

大庭氏の述べていることを(なんばさんの言説と絡めて)敷衍してみると、「他者によって‐意識されて‐ある‐ということの意識」の「他者」というのは、現在私の目の前にいる、私に直接現前している他者に限らないことは明らかだろう。「善意」でも悪意でもなく(でもありえ)、特定・不特定の他者が(その他者にとっての)特定・不特定の他者を意識し、その中にはほかならぬ〈私〉も含まれうるということが重要なのである。自己にせよ他者にせよ、それが視線の複雑な交叉の裡に構成され・存立していることが忘却されることを物象化(reification)という。自分は「自立してるよ! 強いよ!」と思い込むことは自己がそのような仕方で構成されていることを忘却することであろう。また、他者の構成に自分も一役買っていることが忘却されると、時にはそのことによってモンスター的な他者を造ってしまうことがある。枯尾花を幽霊にしてしまうこと。
さて、堀江敏幸『河岸忘日抄』*5からまた引用;

(前略)周囲にべつの人間が、べつの人格が、たとえ相互に無関心であろうと存在していないかぎり、どんなに内にこもっているつもりの人間でも存在できないはずではないか。自分はたったひとりだと考えるのは、だからおそろしく傲慢なことだ。おれはひとりぼっちだと、そう考える余裕を与えてくれているのは、なんの血縁関係も、なんの力関係もない赤の他人たちだからである。(p.250)
河岸忘日抄 (新潮文庫)

河岸忘日抄 (新潮文庫)