宗教と「集団性」(メモ)

2008年6月の「Yahoo! 知恵袋」への質問;


宗教が集団性を持つのは危険ではないですか?gabunomimilkさん

宗教が集団性を持つのは危険ではないですか?

要するに個人個人で静かに信仰していれば良い。
同じ信徒同士だという理由だけで交流を持つべきではない。
・・・と思います。
勧誘なんで論外です。
なんなら教会やモスクなんていらない。
洗礼という儀式も、個人的には必要ないと思いますが、
もし必要なら自宅まで神父さんに来てもらえば良い。


現実的ではないし、皆さんの意見を聞くと、この考えは支離滅裂だと自覚するかもしれません。
でも、宗教が関わる争いは少なくなると思うんです。
この考え方・・・おかしいですか?

ちなみに宗教や信仰自体が悪いとは思ってないです。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1316953648

これについて、福永武彦『草の花』*1の中の「汐見茂思」と「藤木千枝子」*2との宗教についての問答を思い出した。

――(略)僕は聖書を読み、イエスを信じ、イエスの言った通りに行動しようと思った。もし僕の手に一冊の聖書があり、僕が常に罪を意識して基督によって救われようと意識しているならば、それだけでもう充分じゃないか、何も教会に行く必要なんかありはしないのじゃないか、と。
――つまり一人だけでいいっていうわけ?
――そうだよ、僕が僕の心の奥深いところで神を信じていたら、それこそ本当の無教会じゃないだろうか。
――それは、とちょっと考えてから、傲慢だわ、と千枝子は小さな声で言った。
僕はぎくっとしたが、勢いをこめて反撥した。
――それは僕が言うから、千枝ちゃんには傲慢に聞こえるのだろう。僕は一般論を訊きたいのだよ。もし或る人間が、一人きりで聖書を読んで、それを真実だと思い、悔改め、イエスを信じることで新しく生きようと決意した、彼には信仰を分かちあう友もなかったから、いつでも一人祈り一人信じた、――とすれば、その人間は基督者ではないだろうか?(p.190)
さらに、千枝子は

ただね、信仰というのは悦びだと思うのよ。福音を聞くということは、同時にその福音を他人に伝えたいという悦びを伴うものでしょう。信仰の悦びは、それが心に充ち溢れて来ると、それをどうしても人に伝えたくてたまらなくなるような、自分だけがそれに与っているのは惜しいような、そんな種類のものなのでしょう。だから今迄の教会のような、そんな形式的な、伝統的な、固定した教会とは違った意味で、本当に霊的な、同信の者の愛の交りが始まるのは極めて自然だと思うのよ。そんな孤立した、一人きりの信仰なんてものは考えられないと思うのよ。(p.191)
と言う。
草の花 (新潮文庫)

草の花 (新潮文庫)

ところで或る聖なるテクストがあるとする。それが教団というかたちを取らないで、1万人に伝播し、そのテクストについてそれぞれが(他者のチェックを受けない)俺様的な解釈を捻り出すと仮定してみる。その社会的な帰結は、教団という制度においては1人の〈麻原彰晃〉で済んでいたものが、1万人のプチ〈麻原彰晃〉を生み出してしまうということでは? 勿論、そのことが直ちに惨事につながるというわけではないが、相当にキモい事態ではあろう。

*1:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090615/1245006782

*2:彼女は無教会派のクリスチャン。