零とか

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090403/1238730334に関連する?

倪梁康「零與形而上学――従数学、仏学、道学到現象学的有無之思」in倪梁康『理念人:激情與焦慮』北京大学出版社、pp.31-40、2007*1


先ずそもそも漢字の零にはzeroという意味はなかったことを思い出す。元々は(そして現在も)小さいこと或いは端という意味で使われている。例えば、零銭は小銭のこと。日本語においても、零細企業といえば小さい企業という意味であろう。しかしながら、零には動詞としての用法で、fallという意味がある(p.34)。(既に日本語にも組み込まれているが)零落という語の零も落のどちらもfallという意味である。そこから明代くらいになって、「空位」を意味するようになった(ibid.)。日本語では303を三百飛んで三というような場合に、漢語では三百零三という。空位或いは(有の)欠如としての零。
しかし、空位としての零は正負の間としての数学的な零と完全に同じ意味ではない。倪梁康氏は、寧ろ老子的な「無」こそ、そうした零に対応するのではないかという。例えば、「無、名天地之始;有、名万物之母」*2(第1章)。また、「天下万物生於有、有生於無」*3(第40章*4)。倪氏は老子的無を「個別/一般」、「現象/本質」という西洋哲学(形而上学)の範疇に包摂しようとする任継愈の解釈を退け(p.37)、「生於」に着目し、以下のように言う;


顕然、“生於”的説法所指示的是一個発生、生成的過程、而不是一個静態的関係模式。這裏仍然可以借助於零與数字的関係来説明:用“一”或任意一個数字標識的可以是一個実物、一個事物的集合、也可以是一個意念、一個数。它們與零的可能関係僅僅在於:它們最初都源於零、生於零。零既不是正的、也不是負的。它静居於正負両極之間、構成万物的中心。但它是空的、形而上学的万物従它展開去。(pp.37-38)
さらに、「老子的“自然”、唯識学的“自性”、康徳*5和謝林*6的“自由(Freiheit)”、海徳格爾*7所説的“本成(Ereignis)”、都或多或少地指向発生意義上的零」(pp.38-39)。また、これは「感性/理性」の区別を基礎とした「認識論形而上学」ではなく、「基於本原/生衍両分之基礎上的発生論形而上学」であり、またフッサールが関わった形而上学でもあるという(p.39)。
老子 (中公文庫 D 1)

老子 (中公文庫 D 1)

Tao Te Ching (Classics of World Literature)

Tao Te Ching (Classics of World Literature)

*1:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080613/1213324521

*2:Arthur Waleyの英訳では、”It was from the Nameless that Heaven and Earth sprang;/The named is but the mother that rears the ten thousand creatures, each after its kind.” 但し、Waleyと倪氏とではパンクチュエーションが異なる。倪氏が引用したパンクチュエーションに従うなら、”Nothing, the beginning of Heaven and Earth was named;/Being, the mother of every being was named.”とか訳されることになるのでは? Waleyのテクストに関しては、see http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20081110/1226290230

*3:Arthur Waleyの英訳では、”For though all creatures under heaven are the products of Being,/Being itself is the product of Not-being.”

*4:倪氏は「第四十一章」としているが(p.37)、これは40章の誤りであろう。

*5:Kant

*6:Schelling.

人間的自由の本質 (岩波文庫)

人間的自由の本質 (岩波文庫)

*7:Heidegger