余白のあるカンヴァス

余白のあるカンヴァス (1976年)

余白のあるカンヴァス (1976年)

『余白のあるカンヴァス』というのは池田満寿夫の妻だった中国系米国人の画家リ・ランの自伝的エッセイのタイトルで、たしか先日亡くなった加藤周一*1が跋文を寄せていた。
その話ではなく、セザンヌの話。セザンヌ(塞尚)が西洋美術における〈空白〉の発見者であったという話。王才勇『印象派與東亜美術』*2に曰く、「塞尚創作中令人嘱目的一個特点便是、他70年代中以後、即成熟期的作品中有相当一部分在視覚造型上是未完成的、画面上留下許多未画完的空白処」(p.172)。また、

殊不知、這些“未完成的”恰恰由於其未作任何塗描、使画布本身的視覚質感直接参与到了画面造型的完成中、従而不僅在画法上展現出了向東亜美術技法的靠攏*3、而且還在鑑賞効果上具有着類東亜的意味、也就是説、使画出的図像與承載它的物質載体(画布)不可二分地渾然一体、進而使観者在対那些“未完成”的空白進行“充填”的過程中也参与到了所完成的成像中。藝術家在画布上画出的図像是未完成的、真正的成像是在観者参与下完成的。由此就有了所謂的“象外之象”、“味外之旨”。(p.173)