私たちは日常生活において今日と同じような日が明日も明後日も、さらに1年後も続くだろうということを自明視している。これは一方では退屈や倦怠なのだろうけど、このような自明性がなければ安穏と日常生活を送ることはできない。しかし、その一方で、今日と同じような日がいつか中断されるであろうということも確信している。それは、究極的には(未来の或る時点における)〈私の死〉ということになるのだろう。だから、日常生活というのは、一方ではそうした〈不安〉を引き受けつつ、敢えて忘れる(忘れたフリをする)という仕方において存立するものなのであろう。
川上弘美『おめでとう』*1に収録された短編から少し引用;
「鼻、かみなよ」一郎は言い、ティッシュを一枚引きだして、わたしの鼻の上に置いた。ちんと音をたてて、わたしは一郎の膝の上で鼻をかんだ。
二本目のビールを開けて、一郎はごくごく飲んだ。鴫が鳴いている。川がさらさら流れている。
「一郎、こういうときがまた来るかな」
「来るよ、二人で一緒にいれば、何回でも来るよ」
鴫が、やたらにちいちい鳴く。
「二人で、一緒に、いられるかなあ」
一郎は喉を鳴らしてビールを飲む。日差しが、やわらかい。
「ほんとに?」
「ほんとにさ、ほんとだからさ、もっとちゃんと鼻かみな」
「うん」
わたしは小さな子供のように、頷いた。(「川」、p.148)
竹雄の髪に日が差して、天使の輪ができていた。竹雄の髪は、私の髪なんかよりもよっぽどつやつやしていた。同じリンスとシャンプーを使っていたのだが。
「竹雄と、いつか別れるかな」
日が差して、部屋の中はぽかぽかと暖かくて、私は幸せだったのだ。朝に生まれたから、竹雄と一緒にいたから、竹雄と一緒だけどいつでも一人に戻れるような気がしていたから、幸せだったのだ。だから突然、こんな質問ができたのだ。
「そういう不吉なこと、言わないでよ」竹雄はのんびりと答える。ちっとも不吉を感じていないような口調で。
「だって、未来のことは、わからないじゃない」私も呑気に答える。
未来のことは、なるほどわからないものだ。竹雄が私と別れたいと言いだしたのは、それから二ヵ月とたたない日だった。真冬の曇った日だった。朝子より好きな子ができたみたいだ、と竹雄は言った。下を向いた竹雄の視線は、卓のしみに注がれているように見えた。いつか私がこぼしたインク。(「夜の子供」、pp.77-78)
- 作者: 川上弘美
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