予言の自己成就など

承前*1

http://d.hatena.ne.jp/sean97/20090429/p1



僕も県民性については「あやしいものだろう」と思っているクチですが、ただ、ある県の県民性といわれているものが、逆に彼らの行動様式に影響を与えている、ということは言えるんじゃないか、とは思います。



たとえば、オレは今高知県に住んでいますが、今まで住んだいくつかの県と、人間性に違いがあるとは思いません。まあ普通の田舎者です。

しかし一方で、高知県民の中では、「高知県人は豪快で、酒を浴びるほど飲み、細かいことにはこだわらず…」的イメージが、呆れるほどに流通しています。

するとそれが、彼らの行動を縛る。「オレ、高知県民だから、浴びるほど酒を飲まなくちゃ」みたいな「逆転」が、本当に起こっているのです。

まあ、社会学用語を持って来れば、所謂〈予言の自己成就〉*2ということでもあるか。「国民性」にせよ「県民性」にせよ血液型せよ、〈◎◎の性格は○○だ〉という言説が流布していれば、◎◎が〈◎◎の性格は○○だ〉を内在化して、実際○○のように振舞ってしまうということはありうる。〈◎◎の性格は○○だ〉の主観的なリアリティも、◎◎が自己理解のための解釈枠組として〈◎◎の性格は○○だ〉を使用することによって高まる。上のエントリーのコメント欄で、川瀬さん*3も「僕なんかも、気まぐれなのは自分に流れるB型の血液のせいにしちゃってます(笑)」と書いている。また、私の振る舞いや癖が○○から外れていたとしても、わざと逆らってるでしょ?というふうに脱正統化されてしまう可能性もある。〈予言の自己成就〉については、勿論マートンの『社会理論と社会構造』が参照されるべきだろう。また、昨年言及したことがある大村英昭先生の「空転する世界――システム外無根拠性ということ――」*4も。さらに、よりミクロな準位においては、主体が自らの願望などを他者に写像(mapping)するというR. D. レイン(『自己と他者』)の「写像理論(mapping theory)」も参照すべきかも。例えば、ロリコン男が母親のイメージを自らの恋人に写像することによって、彼女が実際に彼の母親のように振舞ってしまうとか*5
社会理論と社会構造

社会理論と社会構造

文明としてのネットワーク

文明としてのネットワーク

自己と他者

自己と他者

さて、「県民性」に話を戻すと、重要な論点として、近隣の県の人たちがその「県民性」をどう見ているのかということがあるだろう。上の例で言えば、香川や徳島や愛媛の人たちが高知人をどう見ているのかということ。そういえば、大江健三郎の(たしか)『万延元年のフットボール』で、「チョーソカベ」(長曽我部)が怖い記号として喚起されていたような気がする。
万延元年のフットボール (講談社文庫 お 2-1)

万延元年のフットボール (講談社文庫 お 2-1)

*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090428/1240889223

*2:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061117/1163750378

*3:http://d.hatena.ne.jp/t-kawase/

*4:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080817/1218939934 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080904/1220503480

*5:レインって、「反精神医学」とか実存主義との関係で語られることが多いのだが、同時代的な米国の社会心理学の動向をきちんとフォローしていた人としても語られるべきだろう。