「種的同一性」ではなく

承前*1

臓器は「商品」か―移植される心 (講談社現代新書)

臓器は「商品」か―移植される心 (講談社現代新書)

出口顕『臓器は「商品」か』から、「種的同一性」ではないアイデンティティの在り方について少しメモ。先ずはヌアー人;


「われわれ」は自分がどの民族に属するかは、出生によって決まり、それは終生変更できないものと受け止めている。両親がユダヤ人なら世界中どこへ行こうがユダヤ人である。あるいは両親が朝鮮人なら、たとえ日本で生まれ育ち、日本語を話せても、決して日本人になることはできず「在日朝鮮人」として分類される。しかしヌアーやディンカのあいだでは決してそうではない。例えば、ヌアー人はディンカ人を軽蔑し、執拗に襲撃を繰り返してきたが、エヴァンズ=プリチャードが部族と呼ぶヌアーの地域集団のほとんどは、ディンカに出自を持つ人々が人口の半数を占めていて、彼らは部族の永続的なメンバーとして扱われている。こうしたディンカの中には襲撃の際にヌアーの捕虜として連れてこられた者の子孫も数多くいる。捕虜のディンカ人の少年は、養子縁組の儀式を経て、彼を捕虜にした男の息子として育てられ、その男の父系親族集団の正式な一員として認められる。捕虜だからということで、家族の他の者より余計に働かされ「差別」されるわけではない。男の実の息子同様、成人式には父親から雄牛をもらい、後には妻を娶るための牛を実の息子同様分けてもらう権利も持っている。ひとたびヌアーの共同体のメンバーとしての資格がディンカに認められると、彼らの法的地位は自由民として生まれたヌアー人と対等になる。エヴァンズ=プリチャードは、村やキャンプ地に長く滞在しなければ、誰が生粋のヌアーであって誰がそうでないのか見分けることはほとんど不可能だと述べている。民族としてのアイデンティティは決して変更できないものではないのである。(pp.150-151)
ヌアーについて出口氏がここで参照しているのは、エヴァンズ=プリチャード『ヌアー族の宗教 上』。
ヌアー族の宗教 (上) (平凡社ライブラリー (83))

ヌアー族の宗教 (上) (平凡社ライブラリー (83))

次いで、マダガスカルの「ヴェゾ人」;

ヴェゾはマダガスカルの南西部の海岸地帯に生活する、漁労で生計を立てている人々である。しかしヴェゾと目された人々でも、内陸部に移り、農耕を営み、カヌーに乗って漁に出るのをやめてしまったらもはやヴェゾではなく、内陸の農耕民族マシコロになったとみなされるのである。逆に以前はマシコロの人間でも、あるいは「白人」の人類学者でも、海岸部に居住し、砂浜を歩くとき息切れしないように歩くこつや泳ぎを覚えるだけでなく、カヌーを作って帆を張り漁に出て魚を捕り、それを食べたり市場で売るようになったら、つまり海を怖れず海と格闘する技術を覚えたら、誰でもヴェゾになれるのである。この意味で、子どもは、いかにヴェゾの両親から生まれようと、十分泳ぎや漁などをマスターしていないから、ヴェゾとは目されないのである。祖先が誰であるかによってではなく、現在生きている人間自身がどういう活動をするかによってその人がヴェゾであるか否かが決まるのである。現在は、不動で変えることのできない過去によって拘束されるのではないし、過去の出来事の集積とも考えられていない。
「過去の集積」の否定は彼らの生業に対する態度にも見られる。数カ月後の収穫を見越してマシコロの労働サイクルが築かれているのと異なり、ヴェゾの漁労はいわばその日暮らし的で刹那的である。だからヴェゾは自分たちをマシコロのように賢い民族ではないというのだが、しかし「賢くない」ことに認められる過去や長期的見通しの徹底的な否定こそがヴェゾのヴェゾらしさの所以でもある。ヴェゾらしさとはある場所に生活し、現在活動している際に身にまとう型のようなものと考えるべきなのである。それは一時的な、そして決して堅くなることのない型なのである。徹底した現在志向性がヴェゾの自己規定の根底にある。
したがって、ある人がヴェゾ「でもあるし」マシコロ「にもなる」というのは。ヴェゾにとって何ら例外的なことではない。通常あるいは社会科学の文献では、民族すなわちエスニシティアイデンティティは、出自や言語あるいは歴史など、人々に生まれながらに既に備わっている共通のものによって決まると想定されている。しかしヴェゾのエスニック・アイデンティティの捉え方は、こうした「種的同一性」的考え方を否定し、徹底した「関係による同一性」に基づこうとしているのである。(pp.152-154)