「民族」から「国族」へ?


「民族性」というものは、その自覚の有無にかかわらず、おそらく数千年だか数万年だか前から存在する。しかし、「民族主義」はそのような「民族性」の自覚の上に成り立ったものであり、たかだか100年から200年の歴史しかない近代の問題だ。なので、この二つの問題は明確に区別しなければならない(ここまでは当たり前の話)。

実際の話、「民族性」そのものは、誰にも否定できるものではない。たとえ様々な民族の間に生まれ育った場合であっても、いかなる「民族性」も持たない人間は存在しないし、人が母語として話す言葉はすべてどこかの民族語であり、誰もがどこかの民族的文化の中で育つのだから(例外はむろんある)。もっとも、そういう民族性も永遠に不変なわけではない。

ただ、そのことと「民族主義」の問題ははっきりと区別すべきだ。「民族性」を肯定することは、それ自体「民族主義」を肯定することではないし、「民族主義」を批判ないし否定することは、いっさいの「民族性」を批判し否定することまで意味しはしない。
http://d.hatena.ne.jp/PledgeCrew/20090401

部分的には違和感を覚えつつ、全体としては共感を抱く。その違和感なのだが、「民族」という言葉に関わる。「民族」という日本語を聴くと、咄嗟に(英語で)Do you mean “nation” or “ethnic group”?という疑問が浮かんでしまうのだ。換言すれば、「おそらく数千年だか数万年だか前から存在」している「民族性」と「民族主義」に関係する「民族性」、「反米愛国」やらミロシェヴィッチやらと関係する「民族性」というのを一続きのものとして扱っていいのかどうか。これはナショナリズムとpatriotism(郷土愛)*1との関係として論じられてきたことかも知れない。「民族主義」は「民族性」の「自覚の上に成り立った」というより、「民族主義」にとって「民族性」というのはネタにすぎないのではないかとも思ってしまう。この場合の「民族性」というのは、具体的な言語的、宗教的、身体的その他の習俗(ethos)に基づく繋がりの感覚であって、「民族性」というよりも〈民俗性〉といった方がいいようにも思う。中国語では最近nationという言葉を「国族」と訳す傾向があるが*2、「民族主義」(ナショナリズム)とは〈民俗〉を時には利用(exploitation)したり時には扼殺したりしながら「国族」を構築しようとする思想・運動ということができるだろう。