ハンス・ケルゼン国家論メモ

檜山和也「グローバリゼーションと主権の概念」『コロキアム』1、2006、pp.102-119

コロキウム―現代社会学理論・新地平 (No.1(2006年6月))

コロキウム―現代社会学理論・新地平 (No.1(2006年6月))


この中でハンス・ケルゼン『社会学的国家概念と法学的国家概念』を援用して、ケルゼンによる「社会学的国家論」への批判が言及されているので、少しメモしておく。


彼の社会学的国家論批判の中心は、社会学が国家の統一性を存在の水準で把握しようとしており、その結果、そうした統一性の由来について適切に捉えることに失敗しているということである。「[引用者による省略]国家という社会的統一体を経験的に探り出し規定しようと努める社会学者ですら、国家という社会的統一体を前提にしているのである」(Kelsen 1928 [1922] =2001: 11-12)。それゆえ例えば「国家という法的統一体へと包含される諸個人――その中には、子供、狂人、眠っている人、その他帰属意識に全く欠ける人も入る――が、精神的相互作用、社会学的な結束の内的結合を表すところの精神的相互作用のなかにあるということは、決して許容されえない虚構であるのだが、有力な社会学はこれを全く明白なこととして想定するのである」(ibid: 12)。(p.105)

実際、「共有された」信念や感情といった心理的な現象が、経験的に国境とぴたりと一致するなどと考えるにもおろかなことであるし、「瞬間的には」国境などと全く関わりなく展開されうるだろう。「このような極めて変わりやすい大衆心理学的現象と、規範的特質をもち恒常的かつ厳密に境界づけられた社会的統一性とは、全くかかわりが無いのである」(ibid: 131)。またしばしば社会学は経験的な相互作用関係の全体性に国家の統一性を見出そうとするが、しかし仮に実際に経験的に考察すれば、法学的に定義された国境とぴたりと一致して人々の相互作用がそこで断絶する、といったことはまさしくありえない。(後略)(p.106)

したがって、ケルゼンによれば、国民*1の統一性を基礎付けるのは、規範体系それ自体の統一性に他ならない。そしてそうした当為秩序の統一性は、生物的自然的な意味での諸個人の主観や具体的行動に支えられているのではない。「というのは、生物的自然的な統一としての「人間」が国家を形成するのではなく、法秩序において規定されている人間行為が国家を「形成する」からである」(ibid: 229)。つまり、何らかの人間行為は、物理的行動それ自体ではなく、その「背後」で思念された非物質的本性に、つまりは観念上の統一点(人格)に帰属している。このことを可能にするのは規範である(ibid: 95)。むろん、当為的な行為と実際の行為にはずれがあるがしかし、これらは同じ中心点を持つのである。それゆえ、彼の国家への帰属は、その行為がこの規範的体系の中で、この体系に特殊な方法で設定されるからであり、その限りにおいてにすぎないのである。
より社会学的に言えば、国家の統一性は規範的秩序という社会的期待の水準での統一性であり、そしてそうした社会的期待が行為を意味付け、その限りにおいて国家への帰属を定めている。そして生物的自然的な意味での個人やその心情、および具体的な行動はそれに対していわば環境の位置にあるのである。(後略)(ibid.)

ケルゼンにとっては行為主体としての国家というのは規範秩序の統一性の擬人的表現にすぎず、またそうした国家行為も規範による帰属に基づいてはじめて成立する。例えばAによるBの殺人と、CによるAの殺人があった場合、前者を殺人事件として、後者を法による死刑の執行として区別するのは規範においてのみ可能である。それゆえ、国家(主権者)が法を定めるのか、法が国家を定めるのか、というパラドクスはケルゼンにとっては無意味な対立である。そうではなくて、国家は様々に変化する法を統一したものとするための、思弁的な帰属点として要請されるものである。(後略)(p.114、註4)
ケルゼンによるデュルケーム批判;

(前略)デュルケムは社会的事実の持つ拘束力の問題を、義務の履行と同じではないのに同一視してしまっている。そのために、そこではある人が自ら義務付けられていると感じることしか問題にならない。こうして、社会的事実の客観的リアリティを、結局デュルケムは道徳的義務感という心情の問題に還元してしまった、と。(p.115、註5)

*1:「国家」ではなく「国民」?