小山栄三――「人種」の「社会学」化(メモ)

承前*1

阿部純一郎「20世紀前半日本の人種・民族研究における「異種混交」現象への応答――自然/文化科学の境界線をめぐる論争――」『名古屋大学社会学論集』29*2、2009、pp.21-46


第4節「混血問題の社会学化――小山栄三*3の場合」。


小山(旧姓:久保)栄三は、岡[正雄]と同じ1924年に東京帝大文学部社会学科を卒業した。卒論「領内南洋の社会学的研究」ではミクロネシア等に視察旅行に向かい、翌年にはマリノフスキーの議論を社会学界にいち早く紹介するなど(久保, 1925*4)、当初から民族学への関心が伺われる。また『民族』休刊後に開始された『民俗学』(岡書院、1929.7-1935.12)では編集人を兼ね、ミクロネシア関係の論考を寄稿した。戦前小山は、東京帝大文学部新聞研究室研究員の他、厚生省人口問題研究所(1939)や民族研究所などの重要な国家機関の研究員を勤めている(sic.)。(p.33)
戦後は主に、新聞学(メディア論)や広報学の研究者として知られる。戦前の広報学者としての小山については、例えば三浦恵次「行政広報戦後史 小山栄三と日本広報協会」(『広報』1997年5月号*5)とか。
しかし、小山栄三の初めての単著は『人種学(総論)』(1929)であり、戦前には「人種」関係の本を数点出している――『人種学(各論前篇)』(1931)、『人種学概論』(1939)、『人種学(各論後篇)』(1943)(ibid.)。
「人種主義」への批判;

小山によると、「在来の民族学の主要目標は民族の固有の文化の復原と文化発展の法則研究」にあり、「現実の大多数の民族が欧州文明と接触して甚だしき変化を受けているにも拘わらずこの欧州的影響を彼等は文化から消去」してきたという(小山,1944*6:45)。ここでは先の鳥居[龍蔵]のように、外部との接触以前の「民族の固有の文化の復原」に傾斜してきた研究態度が批判されている。それに対して小山は、西洋化が現地社会に与えた衝撃、より直截にいえば、「欧米の支配及び搾取が如何に原住民の社会生活や人口構成を変質させたか」という問題を扱う必要があるとした(ibid:序1)。
と同時に小山にとって、この問題を考察するうえでネックとなっていたのが人種学の問題、より限定すれば人種主義的言説の問題だった。この言説の構成要素は二つに分けられる。すなわち、(1)*7人種の純粋性を仮定する本質主義的想定と、(2)純血を理想とし、混血=退化とする価値判断である。これらに小山は修正を加える。まず、人類史とは絶えまない民族接触の歴史であり、雑婚や混血は常態であるため、血統の純粋性という意味での「人種」は、「紙上の構成物」にすぎないという(小山, 1939*8:160-3)。また、混血を即「廃頽degenerate」とみなすゴビノー(Arthur de Gobinneau)の説について、そこには白人の有色人種への恐怖心に根付いた偏見が多分に含まれており、それがまた世界各地で有色人差別(黄禍論やアジア系移民排斥)を引き起こしている根本原因であるとして痛烈に批判されている(ibid:165-8)。(pp.33-34)
しかし、「人種の純粋性」と「混血=退化という主張」は、実は「「社会学」の水準で回復されていく」(p.34)。「体型Typusbegriff」という概念――「純種」=「血統の純粋性」ではなく「人種形成、淘汰過程の同様性」(ibid.)。「仮令異質要素の血が混つても永年に亙つてそこに淘汰育成が行はれ、特に異質的特徴を示さない程同化作用が行はれてゐる場合にはそれは一つの固有な純系人種なのである」(『民族と文化の諸問題』羽田書店、1942、p.235)。

血統レベルでは否定された純粋性の主張が、ここでは「淘汰育成」による「同化」の可能性を通じて、体型レベルで回帰している。そして、小山によると、このように日本民族が異民族を同化吸収しえたのは、「日本の歴史は主として日本の国土内に展開され直接大量な異質民族と接触する機会を持たなかつた」(ibid:235)からだという。
(略)異質混交性は、他民族との接触交通が低下していく条件下では純化されうるという想定の一変種を、ここに認めることができる。(略)小山にとっては外来文化が日本文化に吸収されるという点が「純粋性」を語りうる根拠となっているのに対し、鳥居の場合は逆に、完全には吸収されない(=沈殿・分離する)という点がその根拠になっているのである。
第二に押さえておきたいのは、小山がここで「体型」という、いわば歴史的−生物学的な集団形成の次元を挿し込むことで、「民族」と「人種」の概念上の区別を曖昧にし、このグレーゾーンを担当する分野に社会学を置いている点である。(後略)(p.35)
「「人種」・「民族」の概念上の不一致と、事実上の一致」――

(前略)たとえ異なる人種や民族(文化)が混交しても、同一国家という共通の淘汰環境の下に置かれつづけると、その国民は共通の文化と体型をもつように収斂されていくというのである。この意味で、文化(民族)と体型(人種)との間には「平行関係」が成立し得るが、しかしその過程は歴史的偶然に左右されるため「必然的関係」ではないとされる。(略)
この歴史的な収斂現象とともに、もうひとつの論点となっているのが、「社会問題」としての人種・民族現象である。この点について小山は、人種や民族が「『問題』となる場合政治的意欲が充たされていることが多い」とし、「政治的主体としての『民族』『人種』とその概念が必ずしも一致しない」(小山, 1944:7-8)と述べている。(略)「政治的に想像された共同体」(B.アンダーソン)としての人種・民族集団は、身体的・文化的特徴を必ずしも共有していない(略)小山は、この政治化された人種・民族現象も、人種=身体/民族=文化の区分を前提していては捉えきれない問題として「文化科学」たる社会学の領域に包摂していく。(p.36)
大東亜共栄圏」における「混血問題」。「混血問題は生物学的観点ではなく、人種・民族の歴史的統一性を破壊するかどうか、政治的・社会的「問題」を引き起こすかどうかという観点から判断されるようになる」(ibid.)。「それが種族の純血性と文化の均衡性を攪乱する」から「混血」は「大東亜共栄圏確立に於て日本の指導性維持に積極的に役立つものではない」(『南方建設と民族人口政策』、pp.643-644)――

ここには血統レベルでは否定されたはずの純粋性の主張が「種族の純血性」「文化の均衡性」という形で再主張され、その安定性を揺るがす混血現象への「社会学的」な反対論拠を形づくっている(略)小山による混血問題の社会学化は、西欧の人種主義的言説を表面上攻撃しつつも、その論拠を生物学的次元から歴史的、政治的・社会的という新たな次元へと差し替えることで、人種・民族の純粋性を理想とする評価基準をより隠された形で温存しようとするものであったといえる。(p.37)
自然科学/文化科学の関係(岡正雄との比較);

(前略)岡の課題が、文化・民族研究の自然人類学への従属化を断ち切ることにあったとするなら、小山の狙いは、この切り分けによって自然人類学に領有されていく人種問題を、文化科学たる社会学の地平から再領有することにあったと考えられる。つまり両者の違いは、(略)自然/文化科学の区分を踏まえたうえで、その対象を人種/文化・民族とするか、人種/人種・文化・民族とするかと整理できる。(ibid.)

大東亜共栄圏」的レイシズムは、反レイシズムを組み込んだレイシズムレイシズムに対抗する(と主張する)レイシズムなので、単純なレイシズム批判では対処が難しい。それに関しては、(田辺元の理論を批判的に検討した)酒井直樹「種的同一性と文化的差異」(『批評空間』II-4、1995、pp.48-63)を再度精読してみるべきか。

批評空間 (第2期第4号) 京都学派と三〇年代の思想

批評空間 (第2期第4号) 京都学派と三〇年代の思想

なお、レイシズムに関しては、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060716/1153074189 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070426/1177557252 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080131/1201781124 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20081009/1223574465 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20081013/1223871479 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20081201/1228105248 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091004/1254657572 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091102/1257185259も。