「情」というよりは

http://d.hatena.ne.jp/kei999/20090114


「情」については、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20081209/1228822602で言及したが。
取り敢えず、アレントの『革命について』第2章「社会問題」、それから矢野久美子『ハンナ・アーレント、あるいは政治的思考の場所』の「アイヒマン論争」を扱った第3章(特に、pp.88-91)をマークしておくべきだろう。また、『人間の条件』第2章の、


(…) love, in distinction from friendship, is killed, or rather extinguished, the moment it is displayed in public. (“Never seek to tell thy love / Love that never told can be.”) Because of its inherent worldliness, love can only become false and perverted when it is used for political purposes such as the change or salvation of the world.(pp.51-52)
というパッセージ。
On Revolution (Classic, 20th-Century, Penguin)

On Revolution (Classic, 20th-Century, Penguin)

ハンナ・アーレント、あるいは政治的思考の場所

ハンナ・アーレント、あるいは政治的思考の場所

The Human Condition

The Human Condition

「愛」は「情」かという問題はあるのだろうが、広く「心の問題」とした場合、それが〈心の闇〉から飛び出して、公共性の光に晒されたとき、とんでもない変質を被ってしまう。「心の問題」が公的な問題として語られ、公的な問題が「心の問題」として語られてしまうこと。だから、「情」それ自体が悪いのではなく、それが「公的にディスプレイされる」ことが問題なのだといえるだろう。
公的な場所に飛び出した「情」は自らを正当化するための理屈を求めるだろうし、理屈のための手段にもなるだろう;

給食費未払いバッシングだって、給食費を払ってくれた親もしくは子どもの給食費を払った自分を肯定するために、給食費を払わない親を否定しなければなりませんでした。 給食費を払わない原因の多くが貧困であっただろうにも関わらず、「高級外車を乗り回しパチンコをする親」のようなベタな像が出回ったのは、情を感じず排除するために必要な言い訳だったのかもしれません。
まあ、上のことは、社会心理学的には「認知的不協和」理論(フェスティンガー)や帰属理論*1で説明がつくのだろうけど。
認知的不協和の理論―社会心理学序説

認知的不協和の理論―社会心理学序説

帰属理論入門―対人行動の理解と予測 (1981年)

帰属理論入門―対人行動の理解と予測 (1981年)

「心の問題」については、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060906/1157517667http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060817/1155814173http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061021/1161451763も。