ヴェジタリアンから幾つか

ヴェジタリアンについてはhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070621/1182449573で言及した。
先ず、


きっこのブログhttp://kikko.cocolog-nifty.com/kikko/2008/09/post-182a.html



でも、こんなふうに、どこかの国の人たちが、他国の食文化を見て、「かわいそう」とか「残酷だ」とかって感じるのは、常に、牛や豚や鶏以外の動物なのだ。「ナントカ教の信者は豚肉を食べない」とか、そうした特殊な例を除けば、牛や豚や鶏って、世界的に人間に食べられるために生産されてる「家畜」であって、「動物」とは見られてないのだ。

あたしには、これが理解できないし、どんなに理解しようと思っても、そこに「命」が存在する以上、「家畜は動物じゃない」とか、「家畜を殺すことは罪にならない」なんて考え方は、人間の自分勝手な屁理屈にしか聞こえないのだ。牛だって豚だってニワトリだって、生まれた時から名前をつけて飼ってて、家族の一員みたいに暮らして来て、猫や犬のように意思の疎通もできるようになってたら、決して殺すことなんてできないと思う。自分の飼ってる猫や犬は殺せないのに、自分の飼ってる牛や豚なら割り切って殺すことができるなんて人、いるんだろうか?

まあ、人は十人十色だから、中にはそうした人もいるだろう。だから、そうした感覚の人は、普通に牛肉や豚肉を食べても、何も感じないんだと思う。だけど、あたしの場合には、自分が殺すことのできない動物をどこかの誰かに自分の代わりに殺させて、そのお肉をお金で買って食べるって行為に、ものすごい罪悪感を覚えたのだ。だから、他の人たちのことは関係なく、あたし自身の心の問題として、「自分の手で殺せない生き物は、できる限り食べないようにしよう」って決めたワケだ。

という部分を切り取っておく。また、これについては、「坂東眞砂子」問題を巡るhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060825/1156475048http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060829/1156827266、またhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061031/1162319741も参照のこと。
次いで、


http://diary.lylyco.com/2008/09/post_178.html



食に善悪はあるか?ベジタリアンでもベジータリアンでも何でもいいけれど、こうした意図的な偏食といわゆる好き嫌いによる偏食との間に本質的な差はない。理由が少し異なるだけで、ただの偏食だ。宗教上の理由で牛を食わないのも、ダイエット中で牛を食わないのも、味が嫌いで牛を食わないのも、臭いが嫌いで牛を食わないのも、菜食主義で牛を食わないのも、やっていることはみんな同じである。性質が悪いのは、ただの偏食の癖に、その偏食を「正しい人間の姿」であるかのように主張し、偏食でない人間を暗黙裡に非難するような「○食主義」の類だろう。

自分で食い物を獲って食わなきゃならない環境に置かれれば、人は食い物を獲って食う。それが生きるということだろう。ただ、複雑になった人間はパンのみには生きられない。生きることと心の娯楽はときに対立する。動物を食うことと動物を可愛がることも、その対立の解りやすい例のひとつだろう。動物に心を寄せるのは、ただの心の娯楽である。別に高尚な意味などない。魚に心を寄せたり虫に心を寄せたり植物に心を寄せたりする人もいるだろう。心を寄せたものは食べられないという人もいれば、心を寄せたものこそ食べたいという人もいるかもしれない。


要するに、選ぶという行為はすでに娯楽要素を多分に含んでいる。今日のBGMを選んだり部屋に置くソファを選んだりするのは愉しい。そして、何事にも「選ぶ基準」を持つことが自分のライフスタイルを作り上げる。ライフスタイルというのは生きる道楽の総称である。○食主義というのも、その道楽を形作る一要素にすぎない。自分のスタイルというのはやっぱり人に認められたいし、いかに趣味がよく、いかに筋が通っていて、いかに素晴らしいかをアピールしたいものだろう。洋楽ファンがJPOPファンを馬鹿にしたりするのもそうした行き過ぎた自己愛の現れである。
これはひどい唯物論*1と瞬間的に言ってしまった。
「娯楽」とか「道楽」という言葉が目立つ。それらはネガティヴな意味を担わされている。例えば、「ただの心の娯楽」。このような言葉遣いによって、ここで言及されている物事は〈真面目に相手にするに値しない〉ものに変更されてしまう。これ自体がマッチョな振る舞いであるといえるのだが、それについてはここでは詳しく述べない。ネガティヴ化の極みが「偏食」という言葉であることは言っておく。
さて、私たちは食物を食べるとき、実は意味も食べている。そもそも食物の原料、それらを処理する料理のプロセス、それらはみな言語的に分節化され・分類されているわけだが、分類のシステムとしての文化はそれだけでなく、この世の中の存在者を


食べてはいけない(食べられない)もの
食べてもよいもの
食べるべきもの


に分類するとともに、それらを何時・何処で・どのように、さらには誰と食べるべきかという規範的な指示も行っている。私たちは食べるときに、こうした文化的コードを参照して、それに従ったり・逆らったりしながら、食物を選択しているといえる*2。さらにいえば、この書き手のような態度もひとつの文化的選択、(この人の言葉を盗めば)「ただの心の娯楽」にすぎないということになる。この根拠を巡る議論は省いて、ただ〈にんげんだから〉といっておく。「ライフスタイル」というのは(集合的に言えば)文化ということであり*3、個人にとっても、その生のスタイルが失われれば、すでにそこにはゾーエーはあるかも知れないが、ビオスとしての生は瀕死の状態であるといえるだろう。私がこれを批判するのは、生物学的なカテゴリーとしてのホモ・サピエンスには還元不可能な〈人間(humanity)〉というコンセプトを肯定するからである。
また、

http://d.hatena.ne.jp/hituzinosanpo/20080928/1222573039



「わらって ころそう、ニワトリを!」という記事を かいたことも ありますけど、そんなに「ひどいこと」ですか。「わらって ニワトリを ころす」のは。ひどくも なんとも ないでしょう?


 わらって たべているのだから、わらって ころすのが当然です。深刻ぶって ころすのなら、深刻な顔で たべるのが当然でしょう。自分では ころせないなら、たべないのが あたりまえでは ありませんか?


 ひとの感情は しらないので、ひどいことを かいているのかもしれません。けど、かわいそうなんて感情は、うえつけられたものにすぎないでしょう? 平気で ころしてる地域のひとは、かわいそうだから肉を たべないなんて いわないわけですよ。スライスされた肉を スーパーで かっている地域の ひとだからこそ、かわいそうということになるわけです。屠場(とじょう)を 自分たちの生活から とおざけているから、「かわいそう」になるのです。

また、ここで引用されている

「わたしたち」は教育やメディアによって動物をころすのは「かわいそう」といった意識ができあがってしまっています。ですが、おさないころからトサツが身近であれば、そのようには感じないでしょう。世界に目をやれば、現実はそうです。ですが都市化がすすんだ日本では どうしてもトサツは「とおいところ」にある(屠場[とじょう]の立地も!)。そして「食肉産業従事者=被差別部落出身、だから両者を差別する」という図式が固定されたままになる。
http://blog.goo.ne.jp/hituzinosanpo/e/ed0a01dc673a00a3b16b0040107fbeda
そんなのわかるわけねえじゃねえか。少なくともそんな単純なものではない。例えば、狩猟が日本と比べてはるかに文化として根付いている米国(それも開拓時代の米国)でも、『子鹿物語』のようにそれなりの葛藤がある*4。また、日本では様々な〈供養〉文化が発達している。さらに、アイヌイヨマンテを初めとして、殺生に対しては複雑な神話的・儀礼的な正当化が要請されることも多々ある。単純だと思うもう一つのことは、「かわいそう」と「わらって ころす」の二分法。殺生という対人関係或いは対動物関係にはエロティックな側面、ハレとしての側面があるが、その二分法はそうした関係の濃さを消去してしまうのだ。殺生のこうした側面については、横井清『的と胞衣』所収のテクストを参照して、さらに考えたいのだが、この本は今手許になし。ところで、エロティックな関係としての殺生ということを考えるきっかけとなったのは、ペドロ・アルモドバル監督の『トーク・トゥ・ハー』の女闘牛士・リディアがコスチュームに着替えるシーンだったのだ。
トーク・トゥ・ハー スタンダード・エディション [DVD]

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なお、部落差別は「かわいそう」という感情によって基礎づけられているのではないだろう(既にある差別がそれによって強化されるということはあるだろうが)。部落差別の基礎にあるのは特定の経済構造と特定のコスモロジーだろう。特に、両義的な力への信仰*5の変容が重要だろう。

*1:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080612/1213237956

*2:なお、私たちの多くは複数の文化のメンバーであるといえる。

*3:Peter Singerの捕鯨反対論も個々の文化への配慮を含んでいる。See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080118/1200626709

*4:子鹿物語』については、森省二『子どもの悲しみの世界』に心理学的省察があった。

子どもの悲しみの世界―対象喪失という病理 (ちくま学芸文庫)

子どもの悲しみの世界―対象喪失という病理 (ちくま学芸文庫)

*5:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080610/1213065637 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080729/1217311769 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080906/1220662781