小島先生が書いているのか

承前*1

行友弥「「ザ・コーヴ」と鯨・イルカ巡る対立」http://mainichi.jp/select/opinion/eye/news/20100720ddm004070155000c.html


映画『ザ・コーヴ』を観ていないので、上のテクストの映画の批評めいた部分はスルー。ただ、あちらこちらで囁かれている批評とか感想も大体そんなものじゃなかったかなとは思った。
さて、


民俗学者谷川健一さんが編者を務めた資料集「鯨・イルカの民俗」には、こうした人間と鯨との壮絶な闘いと交流の記録が収められている。谷川さんは序文で「生きていくためには他の生命を奪わねばならず、それが痛苦をともなわずに済まないのは、あらゆる殺生行為につきまとう心情である」と書いている。捕鯨が盛んだった多くの土地には鯨の供養塔や鯨塚が残り、鯨を「エビス様」と崇拝した地域も多い。こうした風習は鯨への感謝と罪悪感を一体的に表現しているのだろう。

 「ザ・コーヴ」のパンフレットに小島孝夫・成城大文芸学部教授が書いている。「現代社会では生き物が食べ物になる過程自体がブラックボックス化」し、その過程に「無自覚で済む社会がつくりあげられている」。谷川さんが指摘した本来的な痛苦は忘れられ、自分は傷つかない特権的な場所で、絶対的な正義として自然保護や動物愛護が語られる。異文化に対する想像力の欠如も恐らく根は同じだ。
小島先生が書いているのか。小島先生には、5月の成城大学でのシンポジウム*2の懇親会で千葉県和田の特産である「タレ」というツチクジラの干し肉をいただいたのだった。これは配給元が別に反捕鯨イデオロギーに凝り固まっているのではないということを示しているのではないか。
ブラックボックス化」した食は嫌だよというのは、伊太利発祥のスロー・フード運動の根幹にもあった筈(Cf. 島村菜津『スローフードな人生!』)。ただ、(少なくとも)日本の場合、「ブラックボックス」は差別が込みになっている。食のための「殺生」はdirty workとして特定の人々に、「罪悪感」も一緒にアウトソーシングされる。社会の要請で「殺生」に携わる人々は要請に応えたが故に「罪悪」まで背負わされ、差別の対象となる*3
スローフードな人生!―イタリアの食卓から始まる (新潮文庫)

スローフードな人生!―イタリアの食卓から始まる (新潮文庫)

また、「供養」の文化については、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20081001/1222896363 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090111/1231603370 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100205/1265339402 も参照のこと。