Vini Reilly @1984

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フールズ・メイト1984年3月号に掲載されたドゥルッティ・コラム*1のヴィニ・ライリーへのインタヴューの再録。当時音楽雑誌を買うという習慣は既になくなっていたが、このインタヴューが載った『フールズ・メイト』はたしか買った。その意味でも懐かしい。
少し抜き書きしてみる。「パンク」への失望;


――音楽を始めたきっかけを話してくれますか。


ヴィニ・ライリー(以下V):意外に思えるかもしれないけれど、僕のスタートはパンクだった。1977年にマンチェスターでノースブリーズというグループを始めたんだ。何も特別なことをしていたわけでもない。当時の多くの人たちと同じように、フルヴォリュームでありとあらゆる不満を絶叫していた。いつも何かにイライラして、とても破戒*2的な気分だった。その頃の僕は、パンクは音楽回復の手段になりうると考えていたんだ。ビジネスマンの言いなりになるんではなく、音楽を音楽家の手に取り戻し、そのイニシアティブをもって本来の自分のやりたい音楽をやるということ、これがパンクのイデオロギーだと考えていた。でも、実際には、僕が始めた頃にはすでにパンクは音楽産業のなかにドップリと浸かっていて、その運動サイクルを閉じようとしていたときだったんだ。「金がない」「仕事がない」と叫んでいたミュージシャンは大方ミドルクラスになっていたし、それを喜んで受け入れていた聴衆にしたって似たようなものだった。ある日、突然それに気づいたんだ。もう本来のパンクなんてカケラも残っていないっていうことにね。それで僕はバンドを解散した。その時はひどく落ち込んでいて、何もしたくない気持ちだった。そんな僕がもう一度試してみようという気になったのは、直接的には友人たちの熱心な勧めであり、間接的には、シチュエイショニスト(情況主義者)運動のやり方を知ったためだ。これで答えになってるかな。

また、

――どのようにして、現在のスタイルを確立したんですか。


V:ともかく、もはや何の価値もなくなっていたパンクに対して、一つの異議を唱えたいと思った。しかし、同時にラディカルでアナーキーでありたいとも考えていた。それには、今までどこにもなかったような奇妙で正直な音が必要だと思ったんだ。そんなことをぼんやりと考えながら、戸外の自然に自分を溶け込ませてゆき、何気なくギターを手にしたときに、ドゥルッティ・コラムの最初の録音『No Communication』(註=A Factory Samplerに収録されている)が生まれたんだ。こうした自然で純粋な方法、ある意味でスポンティニアスな姿勢がドゥルッティ・コラムの基本になっている。パンクと比べれば、僕の音楽はまったくパーソナルで思索的なものかもしれない。でも、静かで優しい音楽が、ある状況では激しいリズムに合わせて大声で喚く以上に、ラディカルでアナーキーでありうると思う。僕の音楽は、その一例なんだと考えている。


――現在の音楽シーンについてどう思われますか。


V:実に寂しい限りだ。ミュージシャンの主体性が弱まって、ビジネス側のコントロールに完全に屈している。パンクはすっかり過去のものとなったし、ザ・フォールのような生き残った連中も話題にはなるけど、僕には少しもいいと思われない。現状では、何に期待してもだいたい裏切られてしまうと思えるけど、強いて一つ挙げるなら、アメリカの黒人ディスコ・ミュージックだろう。これが海を渡って、イギリスの黒人たちに受け入れられ、アメリカ黒人音楽のファンクの要素とイギリスのエレクトリック・ミュージックの融合が起こった。これはある意味で、ポップスの流れにおける革命的な出来事といえるかもしれない。ニューヨークのアーサー・ベイカーなどは、プロデューサーとしても興味深い仕事をしている。グループとしてはリスク・オブ・リベンジが面白い。でも、これらはまだ本当にシーンを揺り動かすようなインパクトを持っているとは思わないし、いずれはビジネスマンの手に収奪されるとは思うけど、今のところ半分くらいは生き生きしたところがあると言えるだろう。

また、トニー・ウィルソン*3への言及もあり。
Return of the Durutti Column

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