「ストリートビュー」と「よそ者」(メモ)

承前*1

佐々木俊尚「グーグルはストビューで「よそ者」化する」http://japan.cnet.com/blog/sasaki/2008/08/26/entry_27013200/


取り敢えずメモ;


グーグルは1990年代末に設立されて以来、「技術者中心の会社である」「西海岸のTシャツ族」「ネットユーザーと同じ立ち位置」といった印象を普及させることに成功してきた。それはかなりの部分幻想だったかもしれないが、しかしその幻想の中で、多くのユーザーは自分とグーグルが対等な立場にあるような雰囲気、つまりグーグルに対してある種の「身内」的な感覚を持つようになった。「グーグルは何でも理解している」という感覚だ。

 そしてこの身内感覚を、以下のようなネット独特の構造が補強していた。ネットという空間は、(1)個人データの可視化が承諾済みの世界であること、(2)個人データが可視化されるかどうかをユーザーの側が選択できること、そして(3)外のリアル世界から隔絶されていること、という3つの特徴を持っている。

 インターネットという空間は共同体は、承諾済みの世界である。グーグルはグーグルボットを使って不躾にウェブをクロールし、フレンドコネクトを使ってSNSの人間関係を可視化していくが、しかしそこではデータの可視化はすでに承諾され、約束されたことがらである。

 われわれはインターネットはしょせんは「自分という多面体的な人間性のごく一部を表現したもの」にしか過ぎないと思っている。
だからそこでデータが可視化され、多くの人々によって共有されていくことについては、さほどの抵抗感はない。


 しかしこの限定的なネット空間から一歩足を踏み出すと、そこには地平線まで続く野原が広がっている。そこで出会う人間は生身の肉体を持っており、誰とどこでぶつかり、どういう行いをするのかということは、きわめて曖昧に起こり、なんの規則性もない。自分の居場所を構造の中に固定できるようなシステムが存在しないのだ。

 そういう世界では、自分のデータが可視化されるということは、すなわち生身の自分が社会にさらけ出されてしまうような感覚になる。自分のデータを可視化されると、生身の肉体にずかずかと足を踏み込まれるような感覚を呼び起こしてしまう。つまりはプライバシーを侵害されているという不安だ。

 しかしいまやインターネットのサービスは、ネットというバーチャルな空間から外にこぼれ出し、リアル世界へと侵略を始めている。ストビューはその先兵的な存在として、リアルの世界に出てきた。リアルの世界におけるグーグルは、もはや身内ではない。生身の肉体を物理空間にさらけ出して生きているリアルの人間たちにとっては、グーグルはよそ者なのだ。

これはhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080827/1219808453とも関係するか。