反知性主義?

「水伝」問題*1を含む疑似科学問題についての議論において、「反知性主義*2という言葉を最近よく見かける。
英語でいうintellectualismは普通主知主義と訳され、その反対語はvoluntarism(主意主義)である。だから、anti-intellectualismというのはintellectualismの反対としてvoluntarismという語を使うのとは若干ずれたニュアンスがあるということになるか。ところで、仲俣氏がいうように*3、anti-intellectualismは「反知識人主義」、「知識人嫌い」というふうに訳した方が誤解が少ないように思える。反(anti)―知識人(intellectual)―主義(ism)か。
少し前に、毛沢東思想は人間の主体性を強調する云々と書いた*4
ところで、儒学には(もし西洋哲学的な範疇を当て嵌めるとすれば)主知主義的な極として程朱の学(朱子学)があり、主意主義的な極として陸王の学(陽明学)があると一応言えるだろう。王元化『人物小記』*5の中の「読《毛選》記」(pp.150-160)の中の1988年に書かれたフラグメント(pp.150-153)で、汪樹『毛沢東思想與文化伝統』(1987)という本が引かれ、毛沢東に対して、顔習斎という思想家の影響が強かったことが指摘されている。


顔習斎出生在北方一個小村落、他的生涯大多在家郷度過、他把読書比作”呑砒(霜)”、強調習行有用之学。所謂習行有用之学唯兵、農、礼楽三端。(p.151)
「顔習斎排斥読書強調実践」ということで、王陽明よりもラディカルに「知」ではなく「行」を強調したらしい。毛沢東は1964年の「春節座談会」において、

明朝搞得多好的、只有明太祖民成祖父子両個、一個不識字、一個識字不多、是比較好的皇帝。以後到了嘉靖、知識分子当政、反而不成事、国家就管不好。読書多了、就作不了好皇帝。(p.152に引用)
明朝初期、無学な皇帝が統治しているうちはよかったけれど、知識人が政治を牛耳り、皇帝の教養も上昇して駄目になったということだ。王元化は、毛沢東のこうした発想と、彼が発動した「知識分子」は「体力労動」によって「思想改造」を図るべしという下放政策とは「不無関係」であると述べている(p.152)。
ところで、建国から文革直前までの毛沢東の読書傾向を知るには、逢先知『毛沢東的読書生活』という本が詳しいという。逢先知は毛沢東の蔵書の管理を担当していた(pp.150-151)。
因みに、日本における朱子学或いは陽明学については、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061013/1160761446 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061101/1162378555 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070423/1177342239 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080310/1205078827とかで言及した。