見える/見えない

小泉義之氏、「ハンスト」問題に言及し、


 関連するが、1980年代に始まったダイイングインも不愉快な運動スタイルである。殺されて死ぬことを真似ることが抵抗や運動になると見なすことは明らかに頽廃・倒錯している。同じく、ノーマライゼイションとともに普及してきたことだが、目隠しして視覚障害を体験学習することや車椅子を体験学習することも不愉快である。見える者が目隠しをして歩く場合、見る能力が欠如した状態を真似ているのではない。そうではなくて、見る能力が欠如した状態を真似る能力を発揮するとともに、見える状態と疑似的な見えない状態を比較する能力を発揮しているのである。そのとき、見える者は、見ることを遮断しながらも、新たに二つの能力を発揮しており、差し引きするなら、見えない者との能力格差を何ら変更していない。むしろ、体験学習などの余得を考え合わせるなら、能力格差を押し広げている。端的に差別的なのだ。そもそも、学習したければ、見えない者に聞いて学べばよいのである。ダイイングインはさらに差別的であることは明白である。
http://d.hatena.ne.jp/desdel/20080209
これと同じようなことは、以前張江さんに言われた記憶がある。たしかに「差別的」である。アマルティア・センのいうcapabilityについて、目を開けることと目を閉じることができる人は目を開けることができない人よりも可能な選択肢が多いのでcapabilityが高いという説明をしたことがあった。しかしながら、小泉氏の文を読んで、少し考えてみた。目明きの人が「目隠しして」得られるのはあくまでも「疑似的な見えない状態」にすぎないということはある。このことは脇に置いておく。「体験学習」とはいっても、それはせいぜい数十分から数時間だろう。1週間或いは1か月「目隠し」を絶対に外してはならないということだったらどうか。その場合、目明きは「見る能力が欠如した状態を真似る能力」とか「見える状態と疑似的な見えない状態を比較する能力」を「発揮」する余裕なんてあるのか。ここで明らかになるのは、〈新人〉と〈熟練者〉の関係だろう。本物の盲人の場合は、長い間視覚のない世界を生きており、それは視覚のない世界で生きるスキルを習得し、身体化しているということを意味している。もしそうでなければ、長い間そういう世界で生きることは不可能である。彼(彼女)と世界の間にはアフォーダンス関係が成立しているといってもいい。それに対して、「体験学習」者にとって世界は以前の日常の欠如でしかない。尤も、〈新人〉と〈熟練者〉の例としては、「体験学習」よりも、中途失明者と生まれつきの盲人の方が適切であろう。「体験学習」者と盲人の違いは何かといえば、前者はいつかは「見える」世界に復帰できるということであり、選択肢を特権的に多く持っているという事実は何ら変わらない。
ところで、見える/見えないといえば、オードリー・ヘップバーン主演の『暗くなるまで待って』を思い出す。
暗くなるまで待って [DVD]

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