「朝青龍」問題については、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070830/1188468360とかhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070905/1189002692で言及した。さて、http://katoler.cocolog-nifty.com/marketing/2008/01/post_a25a.htmlで「朝青龍」問題が採り上げられている。 朝青龍の復帰によって、初場所は満員御礼。「朝青龍」という「悪役」が「低迷する「国技」の救世主」となったという。
ところで、ここでは、「国技」としての角力が〈つくられた伝統〉でしかないことが述べられている。曰く、
驚いたことに、相撲が「国技」であるということを規定する法律は、現在はもちろん、過去においてもどこにも存在しない。それが、何故、「国技」と称されているかというと、明治42年(1890年)に両国に相撲の常設館が建設された時に、その建物の名前が決まらず、伊藤博文の鶴の一声で「国技館」と命名されたことに拠っている。つまり、相撲は、もともと国技であったのではなく、「国技館」という名称の場所で行われていたスポーツだから「国技」であるという認識が、後世において広がっていったということなのである。江戸時代に遡ると、相撲の力士たちは、それぞれの「国」を代表していたのだが、明治政府が「日本人」としての意識を発揚するために、相撲を日本国の「国技」として喧伝し、国威発揚に利用した政治的な意図が、そこには色濃く投影されていたのだ。
だから、事ある毎に繰り返される、相撲は、日本の伝統、国技であり、神聖な神事でもあるからして、単なる「スポーツ」とは異なるのだという議論には、全く根拠が無いことになる。
明治の終わりから「国技」と称されてきたという意味では、それなりの敬意を払ってもよろしいかとは思うが、例えば創業500年の虎屋の羊羹に比べれば、ひよっ子みたいな存在であり、国技としての歴史は、たかだかここ120年のことでしかないことを認識すべきだ。
「国技」としての角力が〈つくられた伝統〉でしかないということは正しいだろう。また、政府の側の「政治的な意図」の介在とともに、江戸時代は大名に召抱えられていた角力界側が廃藩置県で大名制度がなくなって、新たなパトロンとしての国民国家を求めたということも考慮すべきだろう。ただ、角力が「スポーツ」だと割り切ることはできない。国民国家が19世紀の舶来品であるのと同様に、「スポーツ」も19世紀の英国辺りのブルジョワジーによって発明されたものだといえる。角力は「国技」や「スポーツ」である以前に、やはり「神事」なのだろうと思う*1。また、何よりも見世物であろう。民俗行事と地続きであったものが、消費都市である江戸の成熟に伴って、また大名衆の見栄とも重なって、一気に商業化(エンターテイメント化)したとはいえるだろう。「スポーツ」ならば「強いことが一番重要となる」というが、「神事」でもそれは重要だ。力士は神である以上、世俗世界を超越した荒々しさを体現していなければならない。また、神に(また鬼やロック・ミュージシャンに)世俗的な「品格」とかを押し付けるというのはそもそも顛倒した発想であろう*2。また、同じ理由によって、「外国人」ということも問題にはならないだろう。
大相撲は、「国技」としてある以前に、常に市井の人々と共にあった。人々の声援、支持があってこそ成立しているものなのだ。その大相撲の人気を明治政府が盗み、国威発揚のための手段として利用したというのが、相撲が「国技」として偽装されていった経緯である。その後の大相撲が、偉そうに振る舞っているのは、伝統、格式、品格、神事といった観念と常に結びつけていないと、もともと国技でも何でもなく本来は人々のものであったという真実が露呈してしまうからに他ならない。
だから、大相撲は、「国技」としてある以前に、スポーツである。スポーツである以上、外国人であろうが、日本人であろうが、同じルール、同じ基準で評価されなければならない。そこでは、フェアに勝負を競い合うこと、すなわち強いことが一番重要となる。
また、角力は力士が大銀杏を結い、行司が直垂を着ているから面白いということもいえる。たんなる「スポーツ」であるなら、そんなものは必要ないだろう(事実、アマチュア相撲ではちょんまげは結わないし、誰も和服など着ていない)。さらに、醜名も必要ないだろう。(ほかのスポーツみたいに)本名で十分だ。ただ、そのようにして、神事や見世物の要素を削ぎ落とした角力というのはつまらないのではないかと思う。
ところで、朝青龍がバッシングされるということで思い出すのは、昭和の末期にやはり「品格」がない(として非難に晒された)横綱として、北尾(双羽黒)というのがいたことだ。当時『朝日ジャーナル』に、ある人が、これは密かに活性化のために山口昌男を顧問に迎え入れ、〈カーニヴァルの横綱〉を導入した相撲協会の陰謀ではないかという投書をした。そして、名指された山口昌男先生が『朝日ジャーナル』の編集部が記者の宮本貢に書かせているのではないかという「陰謀理論」を一瞬口走ったが、この投書をした人は地方の大学で英文学を教えている人だということがわかったということがあった。
実は、それを遡る1970年代、相撲協会では密かにプロレスラーのデストロイヤー氏やキッスのジーン・シモンズ氏をアドヴァイザーに迎えて、覆面力士を登場させる、力士が隈取をして土俵上で火を吹くという改革を進めようとしていたということは嘘。