提喩は換喩か

内山和也「転義法の分類に関する小考〜隠喩/換喩の二分法の再検討」http://homepage3.nifty.com/recipe_okiba/nifongo/twocl.html


佐藤信夫による「隠喩と換喩に提喩を加えた三分法」を批判。ヤコブソンを参照しつつ、「換喩と提喩との根底的な区別が無効であること」を示す。ただ、納得できない。著者の根拠の一つは、佐藤が「類種関係を隣接性より類似性に近いとする」ということにあるのだが、佐藤が換喩と提喩を峻別している重要な根拠を見逃しているのではないかと思う。例えば、〈白〉は様々なものを比喩的に意味する。髪の毛、雪、中核派金平糖等々。これら多様な存在者を〈白〉によって指示することを可能にしているのは、これらが〈白〉という属性を共有していると仮定されているからである。佐藤が提喩を峻別する際に問題にしているのは、類似性か隣接性かというよりは、具体的な存在者を或る属性に還元する抽象化作用、現実存在と本質存在の関係なのではないか。ところで、「隠喩と換喩に提喩を加えた三分法」ということで、言語学者ではなく社会人類学者だが、小田亮氏のレヴィ=ストロース解釈を踏まえた論に言及しないのはどういうことなのだろうかとは思う。話を戻せば、言語はそもそも抽象化作用の産物であり、その意味では、隠喩にしても換喩にしても、〈原提喩〉に」よって可能になっているとはいえるだろう。

レトリック感覚―ことばは新しい視点をひらく

レトリック感覚―ことばは新しい視点をひらく