美を巡ってメモ

http://d.hatena.ne.jp/good2nd/20071110/1194659667
http://d.hatena.ne.jp/good2nd/20071113/1194968237


美とか趣味(taste)について論じている。取り敢えず、気になったところを切り抜いておく;


ある作品なり何なりを良いと思うかどうかは人によって違いますが、それが人気があるかどうかということと同様に、それが優れたものであるかどうかということもまた別の話です。「優れているかどうか」という評価も人によって差があることは確かですが、それはある程度までであって、完全に相対的ではありません。つまり、駄目なものがあり、駄目なものを好む人がいる。

趣味の悪さを指摘されると「自分の価値観を押しつけるな」などと言う人がいるわけですが、そうではなく、駄目なものは駄目なのです。あなたの好きなそれは、実に下らない、とるに足りない趣味の悪いものなのです。しかしその根拠をあなたに示すことはできません。

なんだか嫌われそうですね。だけど、理解できない人には説明のしようがないと知りつつ、良心に従って言うならば、そう断言せざるをえないのです。
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あなたが良いと思うものが良いものなのだ、という考えは、こうした感受性や直観に支えられていれば妥当でしょうが、そうでなければ単なる個人の好みでしかない。好みと人気と優劣は、すべて別々の要素です。好みはその人自身が判断するだけだし、人気は客観的に言えるでしょうが、優劣はそうはいかない。にもかかわらず、優劣を理解する人にとっては、それは実に歴然としているのです。趣味のない人には優劣はわからないが、わかる人には歴然とわかる。あれこれ理由を述べることはできるかもしれないけど、そんな説明で趣味のない人に優劣を納得させることはできない。批評というのは、趣味のある人のあいだでしか機能しない。


「売れる作品が良い作品だ」などと訳知り顔で言う人がいますが、商売としては正しいかもしれませんが、本当にそれが優劣だと思っているならば、その人は単に趣味がないのです。自分では何が優れているか判断できないので、人気という別の指標に置きかえているだけです。「優劣の基準なんて誰かが作ったものでしかない」という人も同様。自分で判断できる人は、誰かの基準に照らして判断などしていない。趣味判断の傾向を説明する分析はできたとしても、それで優劣が相対化されるわけじゃない。
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なんであんな嫌らしい話を書いたかっていうと、ものの良し悪しがわかるでもなく、自分の美意識を信じているわけでもないくせに、その自信のなさを糊塗しようとして、きいた風な口で「人それぞれだから押し付けはよくない」とか言う、そういうごまかしが僕は嫌なんです。ケータイ小説でもなんでも、良いものがあるなら「これが良いのだ」と堂々と言えばいいのに、自信がないもんだから「価値観は相対的なもので」とかなんとか、ビクビクしちゃってさ。わからないならわからないでいいし、本当に良いと思うならどれだけ悪趣味と言われても擁護すればいいのに。

そうやって主張することもせず、ただ価値を相対化しようとすることは、つまりは本当に良いものの価値を貶めようとすることでしかない。それは許せない。


芸術に優劣はつけられない、というのはその通りだけど、それは「良いものはそれぞれに良いので、一律に比べられない」という話であって、つまり「良いものどうしは比べられない」というだけのことであって、ミソもクソも一緒ということじゃない。でしょ?価値基準を左右する社会的な力学とかもいろいろあるんでしょうけど、そういう分析をしたからって悪趣味が悪趣味でなくなるわけじゃないですしね。もしも大衆がいつか趣味を洗練させる時がくるのなら、その時こそ真に芸術は大衆のものとなるでしょう。教育も啓蒙も放り出してただ悪趣味に迎合してみたって、何にもなりゃしません。
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重要な指摘が含まれており、これらはほぼ同意できるのだが、私の思うところを少し述べてみる。
美とか趣味(taste)について、これは道徳観でもそうだと思うが、立場性の違いが関係している。つまり、私が作品を作ったり・享受したりする当事者である限り、美とか趣味(taste)の基準は絶対である。上に挙げたエントリーで引用されている中島義道『カントの人間学』にいう、

清少納言は「私は春はあけぼのがよいと思うが他人は違うかもしれない」という謙虚な姿勢のもとに『枕草子』を書いたのではない。春はあけぼのがよく、いかなるこれに対立するセンスも認めないという信念のもとに、すなわち、すべての人の美的判断を自分の美的判断に従わせようという強烈な「要求」を自覚して書いたのである。
ということだ。
カントの人間学 (講談社現代新書)

カントの人間学 (講談社現代新書)

それに対して、創作や享受の立場を離れて、第三者的な論評という立場に移行すると、美とか趣味(taste)の絶対性は忽ちone of manyとして相対化を余儀なくされる。また、これは作品内部における素材のフレイミングの問題にも関係する。
さて、超越的な美というのは認められないと思う。かといって、私が美しいと思ったら美という全くの相対主義的、主観主義的な立場にも同意したくない。そういえば、アンドレ・ブルトン美は戦慄なりという主張をした筈だ。美をものではなく、出来事として捉えること。そのためには、美しいということと趣味がいい(good taste)ということは区別すべきだろう*1。というのも、戦慄としての、出来事としての美というのは支配的な基準からの逸脱=偏差(deviance)によってしか定義されないように思えるからだ。趣味がいいこと(good taste)からの逸脱としての美。つまり、美しいことが有徴的(marked)な状態であるのに対して、趣味がいいこと(good taste)は無徴的(unmarked)な状態であるといえる。となると、美は趣味がいいこと(good taste)からの逸脱としての悪趣味(bad taste)とも近しい関係を持つことになる。とすると、ただの悪趣味と美というのはどう区別されるのか。これについては、今言葉で書き表すことはできない。
因みに、good tasteについては、以前http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060312/1142190612で違う視点から書いたことを思い出した。

*1:ほかに、エレガンスやソフィスティケーションはどうなんだということもあるだろうが、これらは捨象。