県民性は?

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090428/1240889223ですが、先ず県と藩との関係で、愛知県の場合、尾張国三河国というか、旧尾張藩領とそれ以外では、けっこう葛藤があるようですね。
さて、「県民性」について、「所謂国民性以上にあやしいものだろうと思っている」と書いて、さらに「「県民性」なんて血液型占いレベル」というブクマ・コメントもいただいたのだが*1、ちょっと敷衍してみたい。
所謂「国民性」という場合、住んでいる地域もジェンダーも階級も政治イデオロギーもばらばらな〈日本人〉が古代から現代、さらには遠い未来までも或る〈本質〉を共有しているという文化本質主義は論外である。しかし、近代以降の国家はどこでもその領土の隅々にまで画一的な教育制度を押し付ける傾向にある。また、国家の領土は国内市場として相対的に閉じており、つまり同じ国家の内部に住んでいる人たちはその外に住んでいる人たちよりもお互いに同じような商品を消費している可能性は高い。その可能性は、放送、出版、音楽などの情報商品や文化商品では、言語という障壁もあり、いっそう顕著だろう。つまり、同じ国に住んでいる人たちは、画一的な教育制度を被り、同じような新聞を読み、同じようなTV番組を視て、同じようなポップ・ミュージックを聴くということを日々続けているがゆえに、その国外の人々よりも感じ方や考え方或いは趣味とかが似てくる可能性は高い。「国民性」というのは、このような教育制度やマス・メディアの効果であり、あくまでも統計的で、しかも流動的なものでしかないだろう。また、これは同じ国家の領土内で生活していることの効果なので、エスニシティや国籍は取り敢えず度外視できる。例えば、在日韓国人朝鮮人)の考え方や感じ方や趣味などは、韓国とか北朝鮮に住んでいる人たちよりも所謂〈日本人〉に近い可能性が高い。何故なら、この人たちも日常的にJ-POPを聴き、朝読毎を読み、NHKやらTBSやらを視ているからである。なお、これは同化云々というのとはまた別の問題であろう。
さて、「県民性」についてはどうだろうか。上でいったような教育制度やマス・メディアの効果が希薄なのではないかと思うのだ。日本の教育制度の中央集権度は高いので、「県民性」を左右するほど、各県での独自性があるのだろうか。以前から興味を持っていたのだが、ローカルの新聞への拘りというのは地域によってばらつきがあるのではないか。ローカル新聞を購読している度合いと県民の考え方や趣味の類似性との相関を調べた人というのはいないのか。ところで、千葉の場合は、(少なくとも私が知っている人の間では)『千葉日報*2を購読している人はいない。というか、私に至っては、買ったこともないし、サイトにアクセスしたこともない。また、ローカルTV局の「千葉テレビ」も似たようなものだな。ただ、FMはどうなのだろうか。私の親とかも車に乗るときにはいつもbayFM*3をかけているので、もしかして、最近FMを通じての千葉「県民性」は以前よりも高まっているのかも知れない。