人間学的条件、そして相対主義の話


生きている存在は、私を見て、そして言葉を発する。「私を見る」とはある程度比喩的な言い方であり、目の見えない人は、私の気配を感じる、その気配の方向へと顔を向ける、というやり方で、私のいる空間を、広い意味において「見る」。それは「私の(あるいは私ではない誰かの)存在を捉える」ことを意味する。同様に、「言葉を発する」もある程度比喩的な言い方であり、仮に発しないとしても、あるいは発することができないとしても、「ミャー」と泣くこと自体が、あるいはそれ以前の「顔を向ける」こと自体が、そうしたことさえもが一つの言葉として私達に向けて発せられる。最大限に広い意味での「呼びかけ」のことである。「見る」方法の多様性、その用いる「呼びかけ」の多様性、その他諸々の多様性において、私達は区別された異なる存在であるが、しかし、「見る」「呼びかける」存在としての形式において一致している。他者とは、一言で言えば、私と同一の形式において異なる内容を持った存在である。いかに多元的な社会であろうとも、つまり私達の思想がいかに多様であろうとも、私達のそれぞれのその形式においてはまったく多元的ではない。
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20061209/p1
「ある思想は、その思想がこの生の形式に対して持っている含意において評価されるべきなのである」と言われる「生の形式」、私なら〈人間学的条件〉と呼びたい。また、読んでいて、東洋思想において〈仁〉と呼ばれること*1は、先ずこうした〈人間学的条件〉への感覚的な反応の可能性のことなのだと思い当たった。引用を続けよう;

ある思想は、その思想がこの生の形式に対して持っている含意において評価されるべきなのである。言い換えれば、その手続きの適法性によらずその内容において正しさを主張する者たちを、「多元的社会に済む者として最低限の抑制も知らない教条主義者」のごとく扱う人々が見損なっているのは、私達の生の形式である。ある判決は、そこで取り扱われている誰かの生の形式に沿っているがゆえに支持されるのであり、別の判決は沿っていないがゆえに支持されないのである。そのようなやり方で「そこに生きている人」を見ることを通じて法を批判する人がいるからこそ、そうした人たちとの間の緊張においてのみ、法は人の生を支えうる重要なシステムとして機能しうるのである。こうした抑制を欠いたとき、法はただの暴力装置となる。
このエントリーを巡って論争が持ち上がっているようだ。さらに、http://d.hatena.ne.jp/yuyu99/20061209/p1http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20061210/p1http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20061210/p2を読んでみても、私の頭では論争の焦点がきわめて捉えにくい。それを顧みず、コメントを試みてみると、これが「相対主義」とそれに対する批判に纏わる論争なのかというのが疑わしくなる。曰く、

相対主義を「無規範主義」として批判したことなどない。というより、相対主義が主張するのはある種の抑圧的な規範であり、僕はそれを批判している。たとえば、野宿者問題において、強制排除しようとする行政に対して、スクラムを組んでテントを守るなどの抵抗をしたとする。相対主義者は、また法的に有効な手続きを経た決定にしたがっていないという意味において、これを違法、不当と言うのである。同時に、それをその内容に即して違法ではない、不当ではない、とする主張を検討に値しないものとして最初から否定するのである。
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20061210/p1
これがはたして「相対主義」に対する批判なのかどうかはわからない。ここで批判されている「相対主義者」にとって、法律(或いは法律を機能させる司法−行政複合体)の相対性というのは存在しない。何しろ、「検討に値しないものとして最初から否定」されるわけだから。私が理解する「相対主義」というのは、寧ろ「違法」「不当」というレイベリングを被った側にも特有の事情があることを配慮する態度である。そのような配慮の欠如こそ、「教条主義」と呼ばれるに相応しい。或いは、法律の機械的適用ということでは、「教条主義」以前のたんなる思考そのものの欠如か。
また、こちらの方では、

価値相対主義者は規範が必要ないなどとはいわないと思う。規範があることで、多くの人が利益を受けることができるならば、規範は肯定される。互いが自由に動くことで最適な状態に達することができない状態(囚人のジレンマ)を規範によって、回避できるならば、規範は望むものになる。規範を設定することが、全体最適な状態に向かうならば、価値相対主義的な立場において、規範は肯定される。特定のグループのみの利益に供与するものならば、規範は否定される。
http://d.hatena.ne.jp/yuyu99/20061209/p1
と言われるが、これも違和感を覚える。何時の間にかに「全体」が導入されているからだ。「全体」の導入、これは様々な「価値」が鬩ぎ合う現世から超越することである。しかし、そのような超越は可能か。「相対主義」が問題になるのは、多くは〈異文化理解〉においてである。自文化においては到底許容できないこと、例えば独裁政治、クリトリス切除、カニバリズム等々も特定の異文化においては全体的な文化的システムや社会的システムの中で有意味であり、或いは機能的である云々。このような議論は、(その妥当性はともかくとして)私たちが当該の文化や社会の外部に立っていることが前提となっている。また、その場合、私たちが特権的な外部観察者に止まる限り、その当該社会に渦巻く諸「価値」の争いを調停したり・裁定することはできない。越権してそれを行うためには、仮令〈余所者〉という資格であっても、その社会にコミットしなければならないが、それと同時に私たちは外部観察者としての超越性と特権を失い、まさに争いの中にある1つの視点として相対化されてしまう。自分がそのメンバーである社会において或る規範を肯定したり・否定したりするというのは勿論、そのような場に自らの身を置くということである。自らの有限性(相対性)を超越して「全体」の名で語ること、それはよりましな場合では無力であり、最悪の場合においては圧制的であると思われる。
さて、

僕は、「人がこれこれの問題を考えるべきだ」とは思わない。これこれの問題を考えないなんて嘆かわしいという態度はとらない。人それぞれのいき方があって、議論することを嫌う人もたくさんいる。ただ単に趣味と恋愛に生きる人もたくさんいる。アフリカの貧困問題に何の興味を示さない人がいてもそれはそれでよいと考える。ホームレスの問題になんの関心も示さない人がいてもそれはそれでいいと考える。多くの人に考えてほしいなぁとは思うけれど、あなたは考えなければならない、考えないという態度は間違ったものなのですよといって、非難しようとは思わない。ホームレスの問題に対して、どっちでもいいじゃんという態度をとる人を非難しようとは思わない。
http://d.hatena.ne.jp/yuyu99/20061209/p1
というパッセージ。これに対して、

「僕は、「人がこれこれの問題を考えるべきだ」とは思わない。これこれの問題を考えないなんて嘆かわしいという態度はとらない。人それぞれのいき方があって、議論することを嫌う人もたくさんいる」。「何かを問題として扱う」、「扱わない」、これを趣味の問題としているのであり、「扱うべき」とする主張はなし得ない、と述べているのである。さらに次の文。「ホームレスの問題に対して、どっちでもいいじゃんという態度をとる人を非難しようとは思わない」。これもまた、趣味の問題としている。またまた、次の文。「法律の立場から見れば、「強制退去すべし」という立場になるし、生活者の立場から見れば「強制退去はするべきではない」ということになる」。ここでも、法律の立場から見るのか、生活者の立場から見るのかは、すべて趣味の問題となっている。
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20061210/p2
という反論もありうる。まず、「ホームレスの問題になんの関心も示さない」ということと「ホームレスの問題に対して、どっちでもいいじゃんという態度をとる」というのは違う。前者は「ホームレスの問題」が意識或いは視野に存在しないということであり、後者は意識或いは視野に存在しているにも拘わらず敢えて「どっちでもいいじゃん」というコミットメントをすることだ。アンケート調査の選択肢でいえば、前者は〈わからない〉に対応し、後者は〈どちらでもない〉に対応するといえようか。私見を述べれば、知ってしまったが故の責任というのは存在するわけで、「どっちでもいいじゃん」というのもコミットメントであり、そのコミットメントに対する責任というのは生じるわけだ。少なくとも、「どっちでもいいじゃん」では済まない人からの反論に対して、自らの立場を正当化するという責任は生じる。