フェルメールなど

国立新美術館の『フェルメール「牛乳を注ぐ女」とオランダ風俗画展』へ行く。40年以上生きて、初めてフェルメールの作品を直に観た。勿論、それだけでなく、17世紀を中心とした阿蘭陀の風俗画(油絵、版画、素描)が多く展示されており、その中にはヤン・ステーン、レンブラント・ファン・レインといった大家のものも含まれている。全体を通した粗い感想をいえば、フェルメールはその頂点なのだろうけど、光と影の表現は見事。また、それと関連して、ピント(focus)ということ。私たちの肉眼はカメラ・アイと違って、ピントの当てられた中心とピントから外れてぼやけた周縁がくっきりと区別されるということはない。肉眼は写真に比べてフラットであるといえるかも知れない。勿論、それにも拘わらず、私たちの肉眼は日常的にちゃんと立体を把握しているわけだが。しかし、肉眼ではなく、絵や写真のようなイマージュを観るとき、どちらをリアルに感じるかといえば、ピントの内外の差異が区別されている方だろう。まさに、写真は真を写す。江戸時代の浮世絵師も西洋的な遠近法を学び取って、活用したが、それらがいまいちリアリティを欠き、何だかデ・キリコの絵画のような超現実性まで感じさせてしまうというのは、そこにピントという発想がないからだろう。絵画はその意味で写真術を先取りしていたといえる。また、展示された作品を観ていて、改めて思ったのは、大方の作品で人物の運動がぎこちなく感じるということだ。というよりも動きが止まっている感じ。初期の写真術では、被写体は動きを止めて長い間カメラの前に立ちつくしていなければならなかったが、これらの絵画も、実際の動きを切り取ったというよりは、描かれている人間(それに動物)がポーズを取りながら、一斉に身体の動きを止めてしまったという感じを抱かせる。こうした感覚は、中国や日本の絵画を観た場合には引き起こされない。
勿論、これらの「風俗画(genre paintings)」はただ風俗、人民の生活を描いているのではなく、多くは道徳的な教訓・寓意の表現として描かれたものだが、これに関しては、これから型録の解説を精読することにする。あと、宗教画のモティーフ(例えば聖母子)がけっこう世俗的な絵画にも流用されているんじゃないかと感じたのだが、それはどうなのだろうか。
日本における美術展を観て思うのは、グッズ販売が充実していること。ポスト・カードは勿論のこと、フェルメールはTシャツにも、ハンカチにも、クリア・フォルダーにも、便箋にもなっている。こうしたことは中国における美術展では殆どない。ところで、国立新美術館地下のミュージアム・ショップはかなり斬新だと思う。というか、ヴィレッジ・ヴァンガードのようなサブカル系書店のショップ・デザインのパクリか。

その後、新しくできた東京ミッドタウンの「江戸切庵」で、もり蕎麦と芝海老掻き揚げと日本酒。