伊東光晴 on アムラー

「経済政策」はこれでよいか―現代経済と金融危機

「経済政策」はこれでよいか―現代経済と金融危機

伊東光晴『「経済政策」はこれでよいか 現代経済と金融危機岩波書店、1999から。
「社会のエトスは、優れた人の直観的認識によってとらえられることが多く、いかに統計的に現実を把握しても、現実社会の中心問題を汲み上げることはできないかもしれない」(pp.2-3)。さらに、


アメリカ的統計をいかに駆使しても、イギリス社会の現在の特徴は把握できないだろう。イギリス社会を知ろうと思ったら、それに関する一篇のすぐれた小説を読むほうがいいのかもしれない。(p.3)(『社会科学とは何か』(清水幾太郎訳)岩波新書、1975)*1
というロイ・ハロッドの言葉を引く。さらに、

(略)最近、アムラー現象というのがあった。安室奈美恵という歌手のまねをして、繁華街で若い女の人が同じような格好をしたが、あれは若い女の人の何パーセントぐらいであろうか。これをいうと歳が知れるが、かつてNHKで放送され映画化され、一世を風靡した菊田一夫のドラマ*2のヒロイン役が、長いストールを巻いていたところから真知子巻きという流行があった。若い女の人がこれをまねて真知子巻きが大流行した。ところが銀座の四丁目で調べてみると、真知子巻きの人は五%程度だった。おそらくアムラー現象も、それではないかと思われる。
社会現象、社会問題というのは、実は五%でも、その社会の風俗を支配する。アメリカ的な統計方法で、その主要なものは何かということを見た場合、五%などというのは消えてしまう。にもかかわらず、文化や社会の質に関する限りは、五%でもその社会をリードする。(pp.3-4)
これは「とくに変動する社会に身を置き、その中心問題を析出するとなると、実は統計数値による十九世紀科学主義的な数量解析では解けない」(p.4)ということの例示なのだが、果たして妥当なのだろうか。実際に「真知子巻き」をしていた人の割合に関する限りはそうなのだろう。しかし、そこから直ぐに「統計数値による十九世紀科学主義的な数量解析では解けない」ということには行かないようにも思う。統計分析の方向を、実際にしている人の数ではなく、「真知子巻き」が流行っていると思っている人の数に転換したらどうなのか。或いは、メディアによる言及頻度の統計は? 「流行」は「流行」していると(メディア等の煽りによって)多くの人が思っている(信じている)からこそ「流行」として存立する。「統計」そのものの問題というよりも、何を「統計」するのかという問題の方が大きいように思える。伊東氏もそもそも「理論以前の直観的認識が経済学の中で持つ重要性」(p.2)を問題にしていた。何を「統計」するのかを規定するのは「理論以前の直観的認識」であろう。その意味で、次の指摘は示唆的だと思う;

(略)私たちは科学者の認識は客観的だと思い込みがちである。しかし、科学者は、有害物質を検出する場合、どのような有害物質があるかをあらかじめ想定して、それが検出できる検出装置を用意して現実を調べる。それゆえ、有害物質があったということは、想定したものが出てきたということに過ぎない。そして、その検出装置では検出できない有害物質は、そもそも検出されない。科学的認識とは、そのような限界を持っている。それが二〇世紀の科学主義である。(p.5)