匂い(『いつか王子駅で』)

いつか王子駅で (新潮文庫)

いつか王子駅で (新潮文庫)

ちょっと前に堀江敏幸『いつか王子駅で』を読了したので、その感想でも書いてみたいのだが、暇がないので、ちょっとした抜き書きをしてみる;


昼間は金属臭の漂う町工場の一角もこの時間にはさすがに空気が洗われて、鼻を刺激することもなければ眼を射すこともない。そのかわり隅田川のほうから饐えた臭いのする微風が、碁盤目状の街路のあいだを吹き抜けてくるのだった。私の鈍い嗅覚では、むかし住んでいた面影橋沿いの部屋に入り込んできた神田川の臭いと区別がつかないけれども、荒川まで足を延ばすとまたべつの空気が澱んでいるから、川水ではなくて街に染みついた固有の臭いなのだろう。生活排水は暗渠に流れ込んでいるはずなのに、ふやけた米粒のまじった洗い水やバスクリンを使ったあとの緑色の残り湯からのらりくらりと立ちのぼる湯気みたいな甘ったるい空気の流れが鼻をかすめたが、これはたぶん高い天窓から桶と水の音を響かせている風呂屋のものだ。(p.63)