英語帝国主義とジェンダーその他

http://d.hatena.ne.jp/terracao/20071008/1191850296で「英語帝国主義」云々を巡って、津田幸男という人の本が批判的に言及されている。津田氏については、かなり以前に慶応大学の言語文化研究所の紀要に載っていた流麗な英語で書かれた論文を読んだっきり、そのテクストを読んでいないので、何だか懐かしいなと思った。このエントリーを読んでいて、何だかその英語の論文と同じような内容だなと感じたのだが、よく見てみると、この本とその論文の刊行時期は1年か2年かの時差しかなかった。それで、「ホスト狂いの25歳OL」のterracaoさんによると、津田さんのロジックは「(フロイトもビックリの!)フロイト理論の酷使」であるそうな。津田さんが参考文献に挙げているかどうかはわからないけれど、岸田秀精神分析的日本論ということになるのか。既に岸田秀というのは本棚にあるのが暴露されると恥ずかしい著者の上位に入っている筈なのだが、それはともかくとして、岸田秀の画期的なところというのは、それ以前の精神分析的日本人論や日本社会論(土居健郎とか小此木啓吾とか河合隼雄*1とか)が一応先ず日本における育児慣行や社会化の仕方に言及して、そこから日本人の自我形成という話に持っていくのに対して、いきなり日本を擬人化してしまうというところだろう。この藝風の違いというのは、前3者と違い、岸田秀には臨床経験がないということとも関係しているのだろうけど、まあ、日本が長椅子に横になることなんかできないだろうといってしまえば、批判はそれで終わり。擬人化ということだが、現実に私たちはジェンダーレスで生きることはないのだが、岸田流にいえば、日本は(男性名詞であるにも拘わらず)女性であるということになる。何しろ、黒船来航によって日本は米国にレイプされて、それ以来、そのトラウマによって日本という娘の性格は歪んでしまったということになるのだから。岸田秀に限らず、国際関係を男女関係に喩えるということはありふれているとはいえる。津田さんは「英語帝国主義」とか「英語支配」の症例として、「日本人の不必要な英語・和製英語の多用(→英語優先至上主義、転じて白人至上主義)」というのを挙げているらしい。津田さんにとって、日本或いは「日本語」というのは女なのである。それも女一般ではなく、自分の所有物であるべき女(妻、娘)である。自分の所有物であるにも拘わらず、合意なのか無理矢理なのかわからないけれど、英語にやられてしまった。それを嘆いていることになる。多分、こういう人は別の時代ならば、「日本人の不必要な」〈漢字・和製漢語の多用(→漢意)〉とか言って、「日本語」は、大和心は、中国語によってレイプされたとか言い募るのだろう(今でも、言っている人間はかなり多そうだけれど)。或いは、(これは岸田秀が言っているかどうかはわからないけれど、民衆的な想像力においてはかなりあると思うのだが)、おかまを掘られて、女にされてしまうというホモフォビア的な強迫もあるのかもしれない。
さて、「日本人の不必要な英語・和製英語の多用」だけれど、一応「英語帝国主義」というのを認めたとしても、全く別の評価が可能だ。よくブッシュ大統領の言葉遣いが〈英語に対するテロ〉と呼ばれることがあるが、これはそれと同じ意味で「英語帝国主義」に対するテロ、もとい〈自由の戦士(freedom fighter)〉としての振る舞いだといってしまうことができる。「英語帝国主義」と闘わなければならないのなら、「日本人の不必要な英語・和製英語の多用」は〈聖戦〉として寧ろ推奨されるべきだろう。