「うたかた的」


「公共性」は実体的・恒常的に存在するのではなく、偶々ある物や事柄が公共的な関心=利害の焦点として浮上したときに、そこにopen to allの原則が貫かれる限りで、否応なく存立してしまう。そういうものではないだろうか。その意味で、一時的(temporary)である。関心が消えるとともに、「公共性」も消えてしまう。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070917/1190015573
これに関連して、市村弘正杉田敦『社会の喪失』の中の記録映画『水俣の甘夏』をネタとした章から。先ずは、杉田敦氏の発言;

人々の個別の意思が一致して、ある瞬間に、まさに偶発的に、あるまとまりが見られるということはあると思います。しかし、それは、しばらくすれば解消されていく方が自然です。逆にいえば、これまでの社会運動が硬直化しがちであったことの一つの理由として、持続することが自己目的化した面があったのではないでしょうか。
アレントが重視する「活動」というものは私にはよくわからないのですが、基本的に刹那的なものであり、うたかた的なものであるはずです。(p.64)
それに対する市村氏の発言;

持続性や継続性が力だ、と思っている人は多いですが、僕自身そうは思わないですね。(略)
運動体が組織防衛に駆られると一番問題です。全共闘運動も、駄目な部分の方が圧倒的に多かったけれども、かろうじて良い部分をすくい出すとすれば、持続する必要はない、と公言していた点でしょう。ある要求が達成されたら、その集団は解散してよい、ということが前提でした。セクトの活動家たちは、そうは思っていなかったようですけれども、僕自身は、運動はつかの間のものだ、という考え方に賛成ですね。それに現代社会では、それ以外の形は無理でしょう。(pp.64-65)