徳間康快その他

『SUPER CITY CHiNAビジネス』8月号に映画評論家の佐藤忠男氏へのインタヴューが掲載されている(pp.6-9)。ここで気になったのは徳間書店の社長だった徳間康快という人のこと。佐藤氏にインタヴューをした姫田小夏という方は、


佐藤氏が初めて中国を訪れたのは80年。当時、徳間書店社長の故徳間康快氏が中国映画の輸入を行なっており、当時の貿易担当者から「中国電影家協会が日本人の映画評論家を待っている。誰か中国に行ってくれない?」と声が掛かったのがきっかけだった。佐藤氏は映画評論家として戦後初めて中国に行ったひとりとなる(p.7)。
と書いている。また、佐藤氏曰く、

(略)徳間さんが私財を投げ打って行なったのが中国映画の普及でした。もともと徳間さん中国映画の輸入を行なっていて、日本で初めて開かれた中国映画祭も徳間さんによるものでした(p.8)。
この「私財を投げ打って」というパッションはどこから来ているのだろうか。そういえば、「中国映画の輸入を行なってい」ただけではなく、文革後の中国で初めて公式上映された日本映画である『君よ憤怒の河を渉れ』は(倒産後に)徳間が買収した大映の作品だし、80年代半ばに中国でオン・エアされ、中国を席巻した『赤い疑惑*1を初めとする「赤いシリーズ」は大映テレビの作品である。また、「徳間グループを一代で築き上げた徳間康快の斡旋により、一九七八年一〇月に北京や上海といった八つの主要都市で「日本映画祭」が開かれた」(劉文兵『中国10億人の日本映画熱愛史』*2、p.159)。ところで、佐藤忠男氏は、陳凱歌や張藝謀などの「第5世代」の作品について、

そもそも中国映画は上海中心に発展した都会趣味のものでしたが、下放され、雲南や新疆ウィグルやチベットでの農村生活を体験した監督が戻ってきて、こうした作品が生まれたのです。西洋かぶれで、上流階級出の中国の映画監督らが文革下放されて初めて地方を知り、下層の生活を知った――。つまりこれらは左翼的イデオロギーから生まれた作品ではないということです。中国では「中国の貧困を外国人にこびてどうする」という見方もあったようですが、彼らは「これを描かないとだめだ」と多くの力作を残しました(p.8)。
と述べている。陳凱歌や張藝謀が特に1990年代後半以降〈ハリウッド擬き〉のスペクタクルに奔った理由のひとつはここに潜んでいるのだろうと思った。つまり、彼らは現代の大都市を描けなかった。とすれば、農村や辺境を描いてきた路線が行き詰まれば、新境地として歴史やらファンタジーやらに行くしかないということになる。
また、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070611/1181541252でも少し触れたが、特に21世紀に入ってからだと、中国映画を中華人民共和国の映画に限定して、その上で日本や米国その他との関係を語るというのは既に限界なのではないかと思う。別の言い方をすれば、少なくとも両岸三地(大陸、台湾、香港)の密接なインタラクションの一環としてでないと、中国映画は語れなくなっているのではないか。