小沢一郎が宗教を語ったらしい

http://d.hatena.ne.jp/nsw2072/20091111#p4


小沢一郎高野山にて、仏教を讃えつつ、「キリスト教文明は非常に排他的で、独善的な宗教だと私は思っている」とか「キリスト教よりましだが、イスラム教も排他的だ」とか述べたという。また、『読売新聞』は「小沢氏の発言は、仏教を称賛することで、政治的には「中立」ながら自民党と古くからつながりのある全日本仏教会民主党との関係強化を求める狙いがあったものと見られる」と推測している。
物には言い様というものがあるだろう。褒められた仏教側もおいおいという感じで、きょとんとしているのではないか。どの宗教にも一定数はいるだろう排外的な〈原理主義者〉を除いては、現代宗教のメインストリームは(少なくとも建前として)諸宗教の対話的共存というのがトレンドなのではないか。スピリチュアリティ霊性)という言葉も、言説化された教義の準位においては一致できないし、一致するべきではないけど、より深層の霊性という準位では諸宗教が一致できるのではないかという側面もあるわけだ。
まして、日本の仏教は基督教やイスラームの脅威を感じているわけでもない。それよりも同じ仏教ではある創価学会の脅威の方が大きいだろう。幸福の科学インパクトはわからないが。それよりも、最近では右翼による基督教(特にカトリック)攻撃が出てきている*1。こうした状況においてこの発言だと、妙な政治的配慮を勘ぐるなという方が無理だろう。政権与党幹部としては、攻撃しているのはちんぴらだとはいえ、こういう状況だからこそ、マイノリティ保護の観点から寧ろ基督教擁護の発言をすべきであろうとは思う。
変な外交問題を惹起させないために、民主党政権には、特に外国の要人が来日した際には檻に入れるとかして、小沢一郎をとにかく隠すことを提案する。
さて、この小沢一郎の宗教談義を紹介している方は、米国の「大統領の就任式でバイブルに手を置いて神に誓う」云々ということを引き合いに出している。ただ、米国と基督教との関係は一筋縄ではない。米国の歴史は、一面では、(良くも悪くも)宗教を米国の〈国体〉に取り込んできた歴史ともいえる。プロテスタントだけでなく、19世紀から20世紀にかけてはカトリックユダヤ教を〈国体〉に取り込んできた。現在の問題は果たしてイスラームを〈国体〉に取り込めるかどうかだとも言える。これについては、例えば森孝一先生の『「ジョージ・ブッシュ」のアタマの中身』とか。

小沢一郎氏も、ぐちゃぐちゃ言うよりも、菅直人氏のように四国遍路をするとか、真冬の滝行への挑戦といったパフォーマンスの方が仏教界へのインパクトは強かったのではないか。
ところで、彼の家の宗旨は?