「社会病理学」についてあれこれ

http://harie.txt-nifty.com/annex/2007/06/post_874c.html


張江洋直氏と基礎研*1の運営委員会に新たに参加していただいた魁生姐さんとの間で、「社会病理学」か「社会病理論」かというやり取りが。
勿論、「社会病理学」という名前には社会有機体論を引摺っているのではないかという突っ込みどころがあろう。それはともかくとして、「社会病理学」は英語で言えばsocial pathologyであり、「病理学(pathology)」は生理学(physiology)と対立する。このpathologyというのが流行っていた時代があったらしい。かなり前にバルザックの『風俗のパトロジー』という本の翻訳が出た頃、仏蘭西語の師匠でもあったT学姉が19世紀の仏蘭西では本のタイトルとして何たらのパトロジーというのが流行っていたということを教えてくれた。それで、pathologyだが、これはpathosの学。pathosは既にペーソスやパトスという日本語(片仮名言葉)にもなっているが、passionと同じく、情念とか悲哀という意味。何故それが病理なのかといえば、pathosがそもそも受動性(passivity)を意味するからだろう。主体=能動者(agent)に対立するのはpatientだが、これは患者(病人)を意味する。つまり、病人とはagentとしての能動性を奪われ、受動性に耐える存在だということになる。情念とか悲哀というのは、理性によって統御できない何か、理性によって割り切れないremaindersが蠢いていたり、凝りとして滞留しているという事態だろう。私自身でありながら、私としては受動的に関わらざるを得ない。また、私たちの能動性なるものが受動性という土台の上に乗っかったものでしかあり得ないというのもまた明らかであろう。
さて、日本語で「社会病理学」というとちょっとアレかもしれないが、社会的悲哀の学、どうしようもなく被ってしまうという私たちの社会的存在の仕方に寄り添う学としてのsocial pathologyというのはなかなか魅力的であるといえないだろうか。
「不随意性」を巡る小泉義之氏の思考*2を思い出した。

病いの哲学 (ちくま新書)

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