「自文化」か「異文化」ではなく

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070618/1182095918と関係あるかも知れないのだが。


http://d.hatena.ne.jp/terracao/20070521/1179768416


「「異文化理解」というのは、よく考えると意味がわからない」という。たしかにそうだ。「自分は究極的には「異文化」を理解することはできない」ともいう。これは私流に言い換えれば、「自分は究極的には「異文化」を」(当事者が「理解」するようには)「理解することはできない」ということになるだろうか。当事者が「理解」するのと同じように「理解」した途端、私は当事者になってしまい、それは「異文化」ではなく既に「自文化」になってしまう(Going native!)*1。「異文化」の「理解」は、私が「異文化」に触発されて、反応を産出している限り、つまり解釈=翻訳(interpretation)を行っている限り、常に生起している。それが誤解であっても、曲解であっても。
しかし、「理解」の前にすることがあるだろう。文化は先ずそもそも生きるものであり、「異文化」だったら何よりも遭遇して、享受したり・拒絶したりするもの。「理解」はこのようなプロセスに反省的な眼差しを向けることによって産出されるといえようか。勿論現実的には、「異文化」との遭遇はまっさらさらの状態で起こるのではなく、前以ての「理解」(偏見といってもいい)に予め処女膜を穿たれた状態で生起するのだが。「自文化の中に、異文化が混在していること;自文化の雑種性・混淆性に気づく」――これにはもう一つ、〈引き受ける〉という契機が絡んでいる。自らの内に「雑種性・混淆性」を孕んだ「自文化」を改めて「自文化」として引き受けること。自らの内なる「異文化」を認知或いはアフィリエイトすること。勿論、その場合、私はそれを、日教組に、文部科学省に、フェミニズムに、『産経新聞』etc.に洗脳されていましたとして、否認することも可能ではある。また、「文化というのは分類(classification)の体系であるということはできるだろう」と書いたが*2、あるものを、これは「自文化」、あれは「異文化」というふうに「分類」するのも「自文化」の機能だったりする。
さて、http://d.hatena.ne.jp/terracao/20070522/1179853873では、「異文化理解の転移可能性(transferability)」という概念が提出されている。「文化(A)や文化(B)に関する(広義の)知識を教える/考えさせることが、教えていない文化(X), (Y), (Z) に対する寛容な/肯定的な態度につながるか否か」ということだという。また、


例えば、「英語は世界語だ」をお題目にして、「世界のいろんな文化を教えましょう」という英語教育にはよくある実践を考えてみる。この実践の根底には、ある(異)文化に対して肯定的な態度が育まれれば、その態度は他のあらゆる文化にも転移するという暗黙の前提がある。確かに世界中に(異)文化は文字通り無限にあるのだから、それらをすべて教えるのは不可能である。したがって、普遍的な意味での異文化理解を理念として設定するのなら、転移可能性を前提にしなければならない。
それで、どう話が繋がるのかちょっと難解ではあるのだが、

しかし、転移可能性を考えるならば、自文化の方を変容させる方が妥当ではないか、と思う。もうすこし正確に言えば、《自文化のことを、「自分の帰属する歴史的・社会的・文化的断片が統合されたつ成物」である》というフィクションを解体させる方にこそ可能性があるのではないかと思うのである。ただ、別にヤマトの歴史はハイブリッドだ、という「大きな」言明をしているだけではなくて、個々人のなかにもおなじような「ゆらぎ」「混淆性」はあるはずで、下世話な喩えを使えば「昨日はニンジン食べれたけど、今日は無理」とか「昨年はオヤジが嫌いだったけど、いまは平気」とか、「童貞卒業したら世界が虹色に見えた」とかそういうことだ(ちがうか)。
というのは面白い。「転移可能性」というよりも、ここでは、文化をパラノイアックに画一的で・一貫したものとして語ることの限界、或いは(レイベルとしての)文化を因果論的出発点に据えてしまうことの問題が問題になっているように思われるのだ。
ところで、terracaoさんは、「異文化理解」のための「英語教育」というありがちな理論(実践)、言説のスタイルを批判する文脈で書いているのだけれど、端的に言って、外国語との遭遇それ自体が途轍もない、数を数えることもできなくなってしまうような(石原慎太郎)「異文化」との遭遇でしょう。

*1:当事者を均一的な当事者として一括りにすることは不可能なので、このことは理念的に〈当事者が「理解」するのと同じように〉ということである。

*2:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070618/1182187167