「病人の役割」(『病いの哲学』)

承前*1

病いの哲学 (ちくま新書)

病いの哲学 (ちくま新書)

小泉義之『病いの哲学』について、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070219/1171910110

ところで、この本の第5章で論じられているのは、哲学者ではなくて社会学者のパーソンズである。これは一見すると不可解な感じもする。しかし、「病人の生」の肯定を目指す小泉氏のプランにとっては重要な意味を持っていると思われる。これは第4章で言及される「不随意性」や「希望」と密接に関わっているのだが、これについては後日述べるかも知れない。
と書いた。「第4章で言及される「不随意性」や「希望」」についてはhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070223/1172242966も参照していただきたい。
第5章において、小泉氏はタルコット・パーソンズ『社会体系論』を採り上げている。コ小泉氏によれば、パーソンズが立てている問いは「病人にしてみれば、社会から排除されたままでも構わないはずなのに、どうして病人は社会的な包摂を受忍するのかという問いである」(p.188)――「パーソンズの分析視角からすると、社会の外部に排除された病人が、患者という社会的役割を引き受けるというそのことが謎なのである」(ibid.)。パーソンズによれば、「病人役割」を構成する規範的な「期待体系」には4つの側面がある;


 1)「正常な社会的役割の責務免除」
 2)「病人は、その回復過程が自然に起こるとしても、看護されることや援助を受け入れることを期待され要請されている」
 3)「病人は、回復を望んでいることを期待されるし義務付けられている」
 4)「医師の援助を求める義務」、「医師と協力する義務」(pp.190-191)


これら4つの中で、「どれが最も重要」、「医療制度を社会体系内で機能させる上で、どれが最もクリティカルであろうか」(p.191)。小泉氏は「第四の役割」が最も「クリティカル」であるようにみえるがそうではないという;


患者の権利運動、インフォームド・コンセントなどは、医師がパターナリスティックに治療方針などを一方的に決定することに対して、患者の意思を優先させることを求めるものである。そして、医師と患者の関係を、契約関係や取引関係をモデルにして改変することを求めるものである。ところが、患者の自己決定権を承認したところで、第四の役割そのものは否定されていないことに注意しておかなければならない。患者の自己決定権とは、結局のところは、すでに課せられている義務を、もう一度患者の側から選び直すだけのことにとどまっている。患者運動や生命倫理学は、大筋では、第四の役割の改良運動にとどまっているのである。実際、医師−患者関係がいかに平等化されようが、患者の地位が受動的で隷属的な地位から解放奴隷的な地位に上昇しようが、また、ケア倫理や臨床心理や当事者性によって彩られようが、それが医師−患者関係であることには些かの変化もない(p.192)。
小泉氏は「パーソンズの分析視角によるなら、病人が第三の役割を引き受けるか否か、病人が第三の役割を批判するか否かが、最も重要でクリティカルな争点になるのである」という(p.193)。これを巡って小泉氏が追うパーソンズの議論は少なからず複雑なのだが、ここでは思い切って中抜きして、小泉氏が最重要と見なしている「治療可能性と治療不可能性をめぐって」の論点をメモしておく;

治癒する場合においてさえも、いわゆる自然治癒力寄与分と医師の処置の寄与分を切り分けることはできない。治療可能性と治療不可能性の境界、治療可能性内部における自然経過と治療効果の境界は、曖昧に入り組み、決定不可能なゾーンをなしている。このゾーンこそが、コミュニケーション・ギャップ*2がそこから必ず発生するゾーンであり、マルセルのいう「不随意的なもの」、ナンシーのいう「体」、そして他ならぬ病人の肉体である。
したがって、病人が社会的役割を引き受け、医療制度が社会的に機能するためには、この決定不可能なゾーンを社会的に処理しておかなければならないのである。具体的には、病人の回復の希望を掻き立て、決定不可能なゾーンをめぐる不安や無気味さを、医療そのものへの信仰に転化しなければならない。医師は「可能なすべてのことをする」のを期待され要請されているし、医師もその責務を遂行するが、不確実で決定不可能な領域が残り続けることに変わりはない。本当は、医師でさえも、このゾーンにおいては、まったく無知で無力なのである(pp.199-200)。
――「医療の合理性を越え出てしまう、何らかの「非合理的・不合理的メカニズム」。「呪術の機能的等価物」、「医療制度に内在する宗教的なもの」(p.200)。そして、「病人が患者になることの社会的機能」は「逸脱した別の社会性」形成の阻止ということになる(pp.203ff.)。宗教的な言葉を使えば、異端・異教の形成を阻止すること。曰く、

社会は、病人を社会の外部に放逐する。しかし、社会は、放逐される病人が、そのままの姿で集団的に社会に立ち現れるのを怖れる。だから、社会は、病人を患者として個別的に専門家と親密圏の支配下に組み込む。決定不可能なゾーンの只中で回復の希望を通して、患者役割を担わせる。そこに犠牲の構造が侵入するのである(pp.204-205)。
かくして、「病人の間にありうべき社会性を構想」(p.205)することが課題となるのだが、「治療可能」と「治療不可能」の「決定不可能なゾーン」(の一部)が医療制度の側が「治療不可能」を公然と認めることによってなくなったら、どうなるのか。小泉氏は、その場合でも「患者役割」は続くという。「善き死」が「回復」から医療のテロスを引き継いでおり、「善き死をもたらすのは、正確に言えば、善き死を早くもたらすのは、医療制度だけであるということにされてきた」(p.206)。

*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070218/1171809771 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070219/1171910110

*2:Cf. pp.19-196. 但し、小泉氏は知識の非対称性による「コミュニケーション・ギャップ」は究極的には否定している。