承前*1
たしかに、無意味綴りをひたすら書くというのは辛い。だからこそ、「いろは歌」のようなものも生まれたのではないかと思う。漢字の場合だったら、『千字文』はどうか。これだと、漢文の基礎も学べる。
そもそも国語の苦手な生徒は漢字だけはしっかり書けないと、点を稼げるところはない。漢字を鍛えることから国語の成績の克服はできるのだが。というわけで国語のダメな生徒には漢字をしっかりやれ、ということは徹底している。しかし今のところ生徒側の多くに改善する兆しはない。おそらく漢字の書き取りをするのは退屈で、個性を圧殺する詰め込み教育だと親も思っているのではないだろうか。しかし漢字がろくに書けないとかなり困ることになる。ちなみに私のバイト先の大学で行なわれるライティングの演習は手書き指定である。でないと、原稿用紙の使い方も知らない社会人は困るだろうと蒙からだろう。
http://d.hatena.ne.jp/Wallerstein/20070507/1178541010
それから、「手書き指定」ならば、縦書きに限る。自分の手で何行も、また何頁も横書きで書いてみると、漢字にせよ平仮名にせよ、そもそも横書きのためにデザインされたものでないということを身体的に理解することができる。手の運動が一字毎に中断され、非常に疲れる。
ところで、近代語は一般に〈言文一致〉という幻想に取憑かれているといえるのだが、日本語の場合(中国でもそうだと思うが)、さらなる一致に取憑かれているのではないかと思う。手書き(楷書)と活字との一致。これは小学校の教科書などが通常使われている明朝ではなく、手書き(楷書)にさらに近いとされる教科書体という特殊なフォントで印刷されているということからも明らかなのではないか。この〈一致〉を追求するために、一方では強引な略字化が進められ、他方ではやたらに細かくて煩わしい〈指導〉が現れるということになるのでは?