丸谷才一 on 伊東光晴

丸谷才一*1「論壇時評の怠慢」『図書』(岩波書店)740、pp.14-15、2010


丸谷才一先生が『世界』2010年8月号に掲載された伊東光晴*2の「心に確たる対抗軸を――菅内閣への期待と助言」という論攷を三大新聞の「論壇時評」が無視していることを怒っている。数か月前に消費税増税問題がネットを賑わせたときも*3管見の限り、伊東氏のこのテクストが話題になることはなかったと思う。
少し丸谷先生の文章を引用しておく;


(前略)伊東さんの論調全体を貫くものについて、あらかじめ説明して置くほうがいい。それは共和党レーガン大統領にはじまり民主党クリントン大統領に受けつがれた、アメリカの福祉削減政策への反対であり、保守党のサッチャー首相に端を発し労働党のブレア首相に引き継がれた、イギリスの、富裕層に優しく貧困層にきびしい不平等肯定への論難である。これは、いま日本で民主党政権が同じ道をゆかうとしてゐるのではないかといふ疑惑と重なり合ふ。(pp.14-15)

まづ所得税について累進課税の強化を説く。その際、これにより不利益をかうむるのは高所得者なのだから、大衆が減税を好むのは民度の低さを示すものにすぎないと言ひ添へるのは、論述の態度として丁寧だらう。伊東さんによれば、八〇年代の日本の累進度が適切である。一九八三年の日本では、最高税率七五%、最低一〇%、一九段階であった。アメリカでもレーガン以前は最高税率七〇%であつたが、次第に下がり、二段階制になつた。日本はレーガン、ブッシュの高所得者優遇を模倣して最高税率を四〇%にしたのだが、これは七〇%に引上げるべきだといふ。
ここで話は消費税に移る。所得税累進課税はたしかに必要だが、しかしアメリカやイギリスと違つて高額所得者が多くない日本では、累進課税による税額確保はすくなく、それによる再分配効果は大したことがない。ちなみに言ふ。アメリカでは、二〇〇五年所得上位一%の人が全所得の一七・三%を占め、上位一〇%の人が四九・三%を占める。イギリスでも事情はほぼ同じ。イギリス、アメリカ型の社会構造ではなく、西欧型の社会構造である日本では、所得の不平等を是正して福祉国家を目ざすべきだから、累進課税の強化と共に消費税の引上げは避けられない。その際、消費税は西欧諸国と同じやうに二〇%になるだらう。ただしすべての財に一率にかけるのではなく、食料品、医療、教育費は別扱ひにすべきだと、伊東さんは含みのある言ひ方で言ひ添へてゐる。(後略)(p.15)
また、これは大笑ひ;

「文藝春秋」八月号は「的中した予言50」といふ大特集をやつてゐるが、奇妙なことにかなりの数は予言ではない。芥川龍之介の「輿論は常に私刑であり、私刑は又常に娯楽である」は箴言だらう。北大路魯山人の「日本人はライスカレー、シチュー、ソースまでみな甘くしてしまつた」は史的考察であり、過去と現在について語つてゐる。従つて予言であるはずがない。例は二つにとどめるが、「週刊朝日」が往年の魅力と風格を失つた今日、唯一の国民雑誌ともいふべき「文藝春秋」の編集部がこれほど低い日本語能力しか持たないのは、首相が漢字を読めないことと並ぶほどの事件だらう。時評子はこの事態を憂慮すべきであつた。(ibid.)