http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070427/1177703588で言及した、例の『朝日』の「没後15年尾崎はどこへ 消えた反抗心」という記事に対しての、
というコメント、鋭いと思った。また、「管理教育というと非人間的・血も涙もない教師を想像しがちだけど、実際管理教育を駆動していた教師というのは、頭の先からつま先まで生徒への愛情が詰まっていて、教師と生徒の絆を信じて疑わない熱血教師だ」ともいう。さらに、最近の若い連中が「これまで成長のプロセスにおける仮想敵だったはずの親や先生の善意を屈託なく信じている」という香山リカのコメントに対しては、「これは自分に言わせてもらえば、「親や先生の善意を屈託なく信じている」のは圧倒的に尾崎に共感する人たちの方だと思う」と。
これは単純に、消えたのは反抗心じゃなくて、反抗心が相手としていた管理教育だと思う。反抗していたその相手がいなくなってしまったか、変わってしまったためだろう。
尾崎にハマるかどうかは、あの時代の管理教育然とした学校を共通の記憶としてもつか、あるいは信じられるかどうかだと思う。
http://d.hatena.ne.jp/stand_up1973/20070429#1177820193
たしかに、「反抗」はコミュニケーションであり、体力的にも神経的にも疲れる。だから、相手が最終的には分かってくれるという〈信頼〉抜きには「反抗」もできないといえる。或いは、不信には常に信への希望みたいなものが孕まれているということなのかもしれない*1。そもそも信への希望がなければ、不信に陥ることもない。そうすると、信を恢復する、信を確かめる手段としての「反抗」も必要なくなるというわけか。そうなると、残るのは、ライフ・ステージとしてはよりプリミティヴな段階に属する幼児的な駄々か、逆に〈大人〉の付き合いということになる。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070323/1174618782でも触れたが、現在ではたしかにかつての「東郷高校」的なものは通用しないのだろう。ところで、80年代的な「管理教育」が「変わってしまった」というのは何時頃からなのか。また、これはメインストリーム的な、高校→大学→ホワイトカラー労働者という社会化の経路とは別の、ヤンキー系集団から若旦那として自営業を継いで地域の中で落ち着く、或いはヤンキー系集団からガテン系職人になって、運に恵まれれば独立経営者になるという社会化の経路があまり機能しなくなったことと平行しているのではないかと根拠もなく思ったのだが、どうなのだろうか。
ところで、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070427/1177654470で明治学院にあった「アンリ・ラングロワ集団」というサークルの名前を出したが、偶々それに(一言ではあるが)言及しているのを見つけた*2。年齢とかはわからないのだが、多分1980年代に大学生活を送った人なのだろう。昨年の7月に書かれたものであり、
という記述あり。「朝の番組」というのは関口宏の番組ですよね。「頭突きは本来顔面にするものだ」というのは、関西の言葉でいうパッチギ、関東の言葉でいうチョーパン、つまり朝鮮パンチか。
サッカーに興味はないけれど、朝の番組で、大沢啓二がジダンに「喝」とかいってて、張本勲が相手選手に「喝」といってた。張本は、人間どうしてもがまんできないときもある、頭突きは本来顔面にするものだがジダンは胸にやったから冷静さを保っていたとも発言していた。やはり差別される身になっての言葉だと思う。くらべて大沢のほうは人種差別する側の人間(死んだソレイタの扱いを思い出せ)だということが明確になり、醜悪だった。
*1:「信じる」ということについてはhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070123/1169521302でもちょっと考えてみた。