末木文美士『日本宗教史』

日本宗教史 (岩波新書)

日本宗教史 (岩波新書)

旅行中に読了する。
先ず目次を写しておく;


はじめに 日本宗教史をどう見るか

I 仏教の浸透と神々[古代]
II 神仏論の展開[中世]
III 世俗と宗教[近世]
IV 近代化と宗教[近代]

主要参考文献
あとがき
索引

著者には既に通史としては『日本仏教史』(新潮文庫
日本仏教史―思想史としてのアプローチ (新潮文庫)

日本仏教史―思想史としてのアプローチ (新潮文庫)

があるが、本書の特徴としては、諸宗教間の相互交渉を軸として書かれていることを先ず挙げることができるだろう。例えば、「古代の神祇信仰が次第に自覚され、理論的に「神道」として形成されるようになる時代を中世と考えたい」(p.9)。また、「十七世紀には儒教が武士を中心に大きな影響を与えるようになり、従来の神仏関係から、神仏儒三教の相互関係を中心とする時代へと転換する」(ibid.)。或いは「近代は仏教・キリスト教神道の三教の交渉の時代ということができる」(p.10)。
また、本書で著者は「〈古層〉」に拘り続ける。しかし、それは「われわれの「くに」が領域・民族・言語・水稲生産様式およびそれと結びついた聚落と祭儀の形態などの点で、世界の「文明国」のなかで比較すればまったく例外的といえるほどの等質性を、遅くとも後記古墳時代から千数百年にわたって引き続き保持して来た、というあの重い歴史的現実が横たわっている」(丸山眞男、pp.1-2に引用)という〈古層〉論の立場に立ち、それを宣揚したり断罪したりということではない。逆である。曰く、

我々の発想は決して白紙状態で自由に形成できるものではない。我々の現在は過去に制約されている。しかも、我々を制約する過去は必ずしも表層に現われているとは限らない。それは、言説化された思想の奧に潜むものである。そうとすれば、それを〈古層〉と呼ぶことは可能である。しかし、それはアプリオリに歴史全体を通じて同じ発想様式として不変であるとはいえない(p.2)
ということで、著者は「歴史を貫く一貫した〈古層〉を認めず、それを歴史的に形成されたものと考える」(p.4)。いわば、〈歴史〉の外側に祀られた〈古層〉を再び〈歴史〉の中へ召喚することといえるだろう。また、著者は〈歴史〉の両義性(語られたものとしての歴史と起こったことどもとしての歴史)に対しても自覚的である。それは「「発見」された〈古層〉と沈澱した〈古層〉は必ずしも等しくない」(p.5)ということを問うているからである。さらに、著者の〈古層〉についての思考が

〈古層〉は私個人の過去の経験でないにもかかわらず、私を深層から規定する。それは長い歴史の伝統の中で次第に形成され、沈澱されてきたものである。ある伝統の中に生きることは、その伝統の蓄積を担うことであり、その底に沈められた〈古層〉の規定を無意識裡に受けることになる(p.7)。
という私たちの歴史的・社会的生についての現象学的・解釈学的省察と同時的に為されていることに注目しなければならないだろう。それから、「宗教」という言葉それ自体も(具体的に論じられているスペースは小さいものの)本書の重要なテーマとなっている(pp.5-7、226-232)。しかし、この件に関しては、著者の『仏教vs. 倫理』(ちくま新書
仏教vs.倫理 (ちくま新書)

仏教vs.倫理 (ちくま新書)

で全面的に展開されているといえよう。
本書について、「宗教史」としての不満を1つ述べれば、「神仏儒三教」と多義的な仕方で関係を持ちつつ生成してきた民俗宗教への言及が少ないことか。