蘇聯と熱湯浴

 松尾匡「ガチウヨ世代のソ連イメージ」http://www.std.mii.kurume-u.ac.jp/~tadasu/essay_70126.html


氏によると、「ネット右翼などの中核部隊をなしている」のは「今の20代後半から30歳すぎぐらい」の世代である。1990年代半ば、自民社会連立政権とか地下鉄サリン事件阪神大震災の頃に大学に入学し、90年代後半に大学生活を送った世代ということになる。松尾氏は先ず「小林よしのり」効果を挙げる。さらに、この世代の「ソ連」或いは「左翼」に対するイメージが他の世代とは異なっているという。例えば、


以前、自分の講義の試験で、民間人の自由な取り引きに任せたら市場メカニズムの「見えざる手」が働いて調和するというようなことを言ったのは誰かというのを、スミス、マルクスケインズの選択肢から選ばせる問題を出したことがある。解答の1位はマルクスであった(正解はスミス)。教員休憩室に答案を持って帰ってパラパラ眺めてそう言ったら、周囲から「クビだ!」と言われた。
 講義で、何でも民営化しろ、刑務所も民営化できる、消防署も民営化できる等々とぶちあげていたら、講義が終わってから学生が一人つーっと前にやってきていわく「キョーサントウ!」。(共産党は国営化を志向するものというのがおおかたの大人の通俗的イメージ)

彼らが「ソ連」というときにイメージするのは、ゴルバチョフソ連である。
 悪くて恐いソ連のイメージは全然ないのだ。店の棚に物がなくて、みんな政府に文句ばっかり言っている「言いたいことの言える国」というイメージなのである。言いたいことを言った挙げ句国がつぶれたというまとめ方をしているようなのである。
 ところが「競争がないとみんな働かないからダメになる」というようなことだけは、どこからか知らないけど聞いてきている。だから、彼らのソ連イメージは、一言で言えば「国民を甘やかす国」なのである。めいめい好き勝手やらせてもらえてそれでも生きていける国というイメージである。「ソ連」「社会主義」「左翼」といったものに対する彼らのイメージは基本的にこれである。
 そして、これでは国はつぶれてしまったという理解になるわけである。国民を甘やかすからだめなのであって、厳しく競争して、ピシーッと統制して反社会的な行為は許さないのがいいということになる。ガチンコ右翼の誕生である。
 一般化はできないかもしれないが、当時の久留米大学の少なからぬ学生のイメージでは、だからソ連では商売も好き勝手できたという発想になるらしい。経済活動も含めて個人の自由にやらせるのが「社会主義」「左翼」というものであって、それは駄目だったのだ、だから「社会主義」や「左翼」は敵なのだというつながり方になるようである。
そして、

ソ連が「国民を甘やかす国」というイメージならば、そんなソ連がつぶれましたという事実は、「理想論を言って人間を甘やかせてもうまくいきませんでした」という教訓に解釈される。だとしたら、心の基本的なところで、社会変革に対するニヒリズムが刻まれてしまって当然だろう。
と結論される。
これが久留米大学或いは福岡県特有のことなのか、それとも全国区的に一般化できるのかは知らぬ。しかし、蘇聯或いは露西亜のイメージというのは日本人の社会意識を知る上で重要な因子だったんだと改めて思った。
松尾氏曰く、

青春時代は、もうこのソ連が重苦しくてしかたなかった。まだゴルバチョフなど下っ端のひよっこで、ブレジネフとかアンドロポフとかが君臨する時代である。自由な言論が抑圧される国。一部の強者だけが特権をむさぼる国。いざとなれば本当に日本全土を焦土にすることも占領することも簡単にできる国(北朝鮮にはこんなこと絶対できませんよ。今とは脅威のレベルが全然違う)。
 ソ連支配下ポーランド労働組合「連帯」が作られたのに心を踊らせ、その闘いに声援を送ったけど、やっぱり軍事弾圧されて終わってしまった。同じころ、お隣の韓国でも軍事政権に対する民主化運動が血なまぐさく弾圧されたけど、片方が社会主義国、もう片方が資本主義国という区別は意味がないと思った。同じ闘いであり、同じ結末だった。くやしかった。どちらの独裁も、いつか必ず打倒できる日を思いつつ、しかしそれは圧倒的現実として目の前にそびえたっていた。
1980年代の前半と後半では蘇聯に対するイメージは全く違う。1980年代というのは蘇聯によるアフガニスタン侵略によって開始されたのであり、日本でも北海道を取られてしまうとマジに恐怖が煽られていた。世界的にも、こうした〈蘇聯の脅威〉を背景にして、例えば米国帝国主義イスラーム原理主義の戦略的同盟といったものが形成されたりする*1。中国のイメージが相対的に良かったのはこのこととも関係がある。それが80年代後半になると、一転して、平和共存、冷戦の終結が謳われだし、ゴルバチョフは一気に世界的なセレブとなり、ペレストロイカだとかグラスノスチといった言葉が流行語になる。日本の首相の名前は知らなくても、ゴルビーは知っているという若い子も多かったのだ。http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070225/1172425320でも書いたのだが、「人権」という言葉の黄金時代というのは、こうした1980年代後半から90年代前半にかけての(今考えれば明らかに脳天気すぎた)社会的気分を背景としている。また、(日本の団塊の世代もその一翼を担っていた筈の)グローバルな60年代世代にとっては、青春時代の夢を再び! というノリもあったのだろうと思う。それはhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070228/1172682741で言及した「ネット文化」云々ということとも関連している。
ところで、ロジャー・ウォーターズのライヴで”Another Brick in the Wall”では会場が大合唱となったと書いた*2。そういえば、80年代、南アフリカでも東欧でもこの曲がデモで歌われていたということは聞く。グローバルな80年代世代にとっては、60年代世代にとっての”We Shall Overcome”と或る意味において等価であるのかも知れない。

*1:複雑なのは、米国、スンニー派ムスリム、蘇聯共通の敵としてのホメイニのイランというのが存在していたことだ。

*2:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070213/1171392671