財神メモ

承前*1

昨日が初四、今日が初五で、「接財神」の日。故に、昨夜から今日の未明にかけて、上海の街は花火と爆竹で満たされた。夜が明けて、今でも散発的に爆竹の音が鳴っている。
さて、以下は去年書いた文章の部分的訂正も含む。
薛理勇「正月十五の「接財神」」(『Whenever上海』2007年2月号、pp.78-79)*2によると、宋の時代、朝廷は商店に正月三が日の一律休業を命じた。四日が開店準備で、五日が店開きの日である。この日は、いつの間にか清朝の頃には「路頭神」を祀る日となった。「路頭神」とは、「古代の方位を代表する神様であり、各路の神様が一つに集まったもの」であるという(p.78)。さらに、それが「財神」を祀る日となった。
さて、薛氏によると、「財神」というのは固有名詞ではなく、従って複数の「財神」が存在するのだという。薛氏が挙げているのは、先ず殷代の忠臣「比干」。比干は紂王によって「胸を割かれて」死んだ。「胸を割かれ、心がなくなった比干はもうあれこれと下らないことも考えられず、正義感をもって物事にあたるだろうと、人々は比干を財神と崇めた」(ibid.)。また、秦代の「趙公明」という人物は、玉皇大帝から「正一玄壇元帥」に封じられ、道教では「財産を司る神」とされており、民間信仰でもそれを流用しているという。「正一玄壇元帥」の特徴は、「鉄の冠」、「鋼のムチ」、乗り物としての「黒い虎」。「黒虎元帥」とも呼ばれ、江南地方では「正一玄壇」或いは「玄壇」とも言われる(ibid.)。さらに関羽岳飛も財神とされることがあるという(pp.78-79)。