「在家僧侶養成」講座

http://www.dmj-grp.co.jp/Template/Goods/go_GoodsTemp.cfm?GM_ID=PZ


http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20070121/1169351539にて知る。
曰く、


現在の仕事や立場を捨てることなく、出家や剃髪もせずに、自宅でお坊さんになれると、空前の大反響を呼んでいるのが本講座です。暮らしが便利になる一方で、複雑化する人間関係、ストレス、怒り、不安…現代人が抱える心の重圧には計り知れないものがあります。こんな時代だからこそ、今もっとも必要なのは心の安らぎと潤いです。あなたも在家僧侶となり、自らの心の平安と潤いを得、また悩める人々の心の支えになってください。 本講座では、平成の良寛とも慕われる現職の御住職の心暖まる名講義で仏教を易しく解き明かしていきます。修了後は僧位(在家僧侶としての位階)や僧号・道号(在家僧侶としての名前)も取得できます。お免状や看板も取得でき、写真のような僧衣も着られ、その気になれば僧侶を副業として活躍し、副収入を得ることも可能です。
これを主宰せしは「日本カルチャー協会」なる団体なり。ただし、fuku33さんが引用しているテクストとは異なる。
佛教といっても様々な宗派があろうが、「平成の良寛とも慕われる」とされる方が講師を務めているようなので、禅宗系だろうか。
これを読んでみて気がつくのは、テクストの前半と後半のギャップ。前半では「心の安らぎと潤い」が強調され、後半では「その気になれば僧侶を副業として活躍し、副収入を得ることも可能です」と妙に実利的。また、これを読んでいると、特に現代日本佛教において僧侶とは何なのかという問題を考えてしまう。明治時代に僧侶の妻帯肉食が解禁されていて以来、仏僧はそのライフ・スタイルにおいて俗人と変わらなくなった。俗人と同様に選挙で投票し、(殺生戒があるにも拘わらず)戦前では兵役も務めた。その一方で、妻帯の帰結として、寺に世襲制原理が導入され、佛教は家業化した。そういう状況における仏僧のアイデンティティとは何なのか。カトリック的な身分としての僧侶からプロテスタント的な専門職(profession)としての僧侶ということになるのだろうけど、今度は専門職しての僧侶とは具体的に何かという問題が出てくる。教義についての知識だって、全ての僧侶が大学の佛教学科を出ているわけではなく、俗人だって僧侶以上の教義についての知識を持っている可能性はある。信徒を惹き付けるカリスマ性だって、百戦錬磨の新宗教の布教師には適わないだろう。そもそも、医師や弁護士と違って、僧侶という専門職は国家権力によるバックアップは全くない。宗教法人としての税制上の優遇というのは、千年の古刹から幸福の科学まで平等に開かれている。実際、近代以来、本門佛立講を嚆矢として、文明開化の時代の佛教にとって僧侶は不要であることを主張する在家佛教運動は脈々と続いている。そうした中で、(「副収入」が目当てであっても)僧侶という肩書きに憧れる人が(広告の惹句を信じるとすれば)けっこういるというのは興味深い。また、中国・日本の佛教の歴史を通して綿々と存在し続けてきた或る伝統がここでは全く忘却されているのに気付く。居士佛教。深い教養を持ち、俗人に留まりながら篤い信心に生きた居士たちとの交流によって、佛教もその教義を洗練させてきたということはあるのだ。今では、居士というのは戒名の一つでしかないか。